特殊潜航艇勇士と岩宮旅館の歴史(昭和14年〜20年)
(資料展示コーナー展示の年表・岩宮満氏作成。
岩宮旅館のご了解を得て謹んで紹介させていただきます。)
昭和14年12月
呉海軍工廠の相馬大佐以下数名の士官達が三机を訪れ、岩宮旅館に投宿した。そして、湾内外の状況を視察し、特潜艇(甲標的)実験場の下検分を行った。その結果、三机湾は二重湾であり波静かな良港であり、湾内への船舶の航行量も少なく、秘密保持と各種訓練に最適であるとして実験訓練地に選ばれたのである。
昭和15年6月から8月まで
三机沖伊予灘で甲標的を母艦千代田に搭載し、速力実験や魚雷発射実験を繰り返した。実験搭乗員は関戸大尉と堀機関中尉で他に若干の計測作業員や立会人が居り、この間千代田艦長原田大佐を始め、実験関係者が縷々岩宮旅館に投宿した。
昭和16年
第一期講習訓練
岩佐中尉、秋枝中尉は、甲標的艇長搭乗員として艇付下士官と共に呉の倉橋島附近で訓練を行った後、3月12日から20日まで三机湾を基地として実験を兼ねて訓練を行った。指導官は加藤良之助中佐でこの時が岩佐中尉等甲標的講習員の初めての三机訪問であり、岩宮旅館利用の始まりである。
第二期講習訓練
1、 6月初めより約1ヶ月間
第二期講習員(艇長講習員、艇付講習員各12名)は、三机の外湾で加藤指導官と岩佐、秋枝両指導官付の指導のもと甲標的の操縦や魚雷発射及び母艦千代田からの発進訓練等を繰り返した。6月末から約10日間休暇の後、
2、 7月10日頃から20日頃まで
三机湾で母艦千代田を目標として停泊艦襲撃訓練を実施した。更に
3、 8月上旬より20日まで
最後の航行艦襲撃訓練を千代田を目標として実施し、好成績を収めて終了した。
4、 訓練期間中、講習員達は毎日のように研究会を開いて艇の用法を研究し、戦術、戦略を検討、論議した。
5、 講習員たちは当初、食事、睡眠は曳船呉丸でとり、入浴は三机に上陸してを建前としたが、次第に旅館に宿泊して入浴、食事をとり、朝船に帰ることが多くなった。そして、士官は原則として岩宮旅館を利用した。
第三期講習訓練
10月1日発令の第三期艇長講習員は11月末まで加藤指導官及び八巻指導官付の指導のもと主として三机を基地として必死の講習訓練を実施した。そして岩宮旅館を常宿とした。
*  12月8日 大東亜戦争勃発 第一次特別攻撃隊 岩佐大尉以下九勇士ハワイ真珠湾攻撃
昭和17年
1、 1月より3月末までに行われた第四期講習では、三机基地は利用されなかったが、この間、先輩後輩特潜勇士達は縷々訓練のため三机に立寄り岩宮旅館に投宿して寄せ書きをしてくれた。
*  5月31日第二次特別攻撃隊 秋枝大尉以下4勇士及び中馬大尉以下6勇士が夫々インド洋マダガスカル・ディエゴスワレスと豪州シドニーを攻撃
2、 第五期講習訓練
第五期講習員は7月初めから9月末まで井元正之(将介)指導官及び篠倉、三好指導官付の指導のもと三机を基地として講習訓練を行った。尚、母艦千代田乗組の門中尉と石野少尉も途中から訓練を兼ねて指導に当たった。彼等は原則として毎日岩宮旅館に投宿し全員寄せ書きを残してくれた。
昭和18〜19年
1、 18年10月発令の第六期から作戦上の要望により、誕生した甲標的丙型による講習が再開されたが、三机を基地とした正規の講習は20年春まで行われていない。
2、 10月中旬
秋祭りの三机湾で名倉中尉は丙型実験の主任搭乗員篠倉中尉及び黒木機関中尉と共に丙型エンジンの連続運転テストを実施し、順調な成果を得た。
その後、黒木中尉は、特攻兵器人間魚雷を発想し、血書を以って幾度も請願した結果19年2月遂に極秘裡に試作が認められ、7月試作終了して実験の結果「回天」として正式兵器としてに採用されたが、自身は9月7日実験中、徳山湾にて殉職した。その溢れる熱血の至情は18年10月の妹・笑への寄せ書に窺い知ることができる。
3、 父 茂雄の記録した岩宮旅館の宿帳が戦後、旅館の建て直しの際、誤って処分されたので残念ながら正確な人数氏名は不明だが、艇長達の回想録や妹への寄せ書、ハガキ等により魚雷実験部の幹部達が新兵器の実験や訓練状況視察のため幾度か三机を訪れ、岩宮旅館に投宿したことが窺い知れる。
*  18年11月以降 甲標的の南方要地進出が計画実施されたが、トラック、ラバウル、ハルマヘラ等への進出は敵機や敵潜水艦による被害多く苦難の進出であった。但し、19年11月から待機攻撃を実施した。セブ甲標的隊(指揮官原田覚少将)は多大の戦果を挙げた。
昭和20年
1、 20年3月
戦局の激化に伴い、特攻戦隊令、突撃隊令が発令され、三机は、第十特攻戦隊隷下の大浦突撃隊(司令・池沢大佐)の主要基地となる。
4月15日
大浦突撃隊の特攻長に八巻大尉が発令され、石野大尉、田中大尉の両特攻隊長以下を指揮して甲標的の作戦行動を担当した。
八巻特攻長の定位置は原則として三机基地で数名の部下士官と共に岩宮旅館を常用していた。
2、 第12期の講習は、三机では行われなかったが、講習終了後、最精鋭の特攻隊第56小隊(長・西田大尉)に選ばれた鹿野少尉等数名の12期講習員は20年4月三机に行き、訓練に励みつつ土佐の宿毛や小筑紫に出撃を繰り返して終戦を迎えた。宿泊は国民学校であったが、何回も岩宮旅館に泊まったり、食事をしたとのこと。12期講習員中、何回も三机を訪れ、岩宮旅館に宿泊した士官の中には吉沢少尉、大里少尉、岡田少尉等の名前がある。
3、 6月末から第13期講習訓練が行われ、その1ヶ班(艇長12名艇付38名)が三机基地に於いて性能向上型の甲標的丁型(蛟竜)を主として(一部丙型)使用して終戦まで訓練を実施した。宿舎は国民学校だったが、入浴と食事に岩宮旅館にも訪れた。
4、 第13期の講習間にも先輩の艇長達が訓練や出撃の途次縷々三机を訪れ岩宮旅館に来訪して緑の寄せ書に署名した士官もいる。
5、 三机での総指揮官八巻大尉は突撃隊や基地隊等の将兵を指揮して終戦処理(器材の撤収や隊員の除隊等)を実行し、8月25日頃三机そして岩宮旅館をあとに呉に引き揚げて行かれた。
九軍神慰霊祭 〈有志〉h14.8.30
九軍神慰霊祭 〈地元〉h14.12.8
九軍神慰霊碑道案内


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