○真珠湾での特殊潜航艇による攻撃
この攻撃は、航空母艦6隻いわゆる機動部隊の攻撃に先攻して行われました。
特殊潜航艇は50トン足らずの小さな潜水艦で、1隻に二人が乗り組みます。
昭和16年11月18日に大型の潜水艦に1隻ずつ載せられ広島県の呉を出港、ハワ
イ沖まで運ばれ、機動部隊の攻撃開始前に母艦から引き離されて出撃しました。
珠湾攻撃への参加が決定したのは、昭和16年10月で攻撃2ヶ月前という直前
でした。当初は乗員の生還が難しいとの理由で、山本五十六・連合艦隊司令長
官をはじめ軍の上層部は反対していましたが、潜航艇搭乗員の再三再四の意見
具申や懇願により、搭乗員の生還に万全の措置をするとの充分な配慮を条件に
許可、実現されたと言われています。しかし、出撃した10名は生還を全く考え
ず、最初から自らの生命を賭ける覚悟であったことが、母艦潜水艦の乗組員な
どの証言から明らかになっています。出撃した10名の内、9名が帰らぬ人とな
りました。終戦までは「九軍神」として武勲が称えられ、その崇高な精神は国
民に大きな感動を与えました。戦争が終わるまでは多くの文献も刊行されてい
ました。
特殊潜航艇による攻撃はその後、オーストラリアのシドニーやマダカスカルの
ディエゴスワレスでも行われ多くの青年が出撃し、生きて再び祖国の土を踏む
ことはありませんでした。
○訓練基地・西宇和郡瀬戸町、三机
特殊潜航艇の訓練基地であったのが、西宇和郡瀬戸町の三机というところです。
三机は愛媛の西部、佐田岬半島の付け根に近い瀬戸内に面した小さな漁村です。こ
こに訓練基地が設けられたのは昭和15年。極秘裡に設置されたため、住民にも内容
は全く知らされませんでしたが住民は隊員を温かくもてなしました。真珠湾をはじ
め特殊潜航艇乗組員は全てこの三机で厳しい訓練で鍛えられ人知れず攻撃に赴いて
ゆきました。終戦末期には、特攻兵器・人間魚雷『回天』の訓練も行われていまし
た。
戦後に訓練基地は廃止されましたが、地元の人や戦友・ご遺族などの尽力により
昭和41年、「九軍神」の慰霊碑が建立されました。以来、毎年真珠湾攻撃の日・12
月8日に地元の青年団有志により慰霊祭が行われています。
しかし、時の流れと共に「九軍神」の事績も次第に人々の記憶から忘れ去られ、普段
は慰霊碑を訪れる人はなく、12月8日の慰霊祭にも地元以外の方は殆ど参列する人
もいません。しかし、三机の人々は今も変わらず人に知られようが知られまいが、
60年前の地元の歴史をしっかり記憶に留め御霊を守りつづけています。なかでも
特に、戦後の厳しい時代を、激しい時代の変遷のなかで、訓練に励んだ青年たちの
姿をひっそり守り次の世代への遺産として残して保存されている方がおられます。
それが、かつて軍神宿と言われていた「岩宮旅館」で、経営されている山本恵子さ
んです。
○今も残る軍神宿「岩宮旅館」
特殊潜航艇乗組員の宿舎だったのが、三机にある「岩宮旅館」です。終戦までは
軍神宿と呼ばれていました。訓練基地が設けられて以来、乗組員のお世話を岩宮家
の家族ぐるみでなされてきました。
戦後は改装されましたが、旅館業を今日まで営まれてきました。この間、生き残っ
た方々や戦友、ご遺族などが慰霊に訪れると往時を偲ぶように必ず宿泊され、岩宮
家の人々も、当時と変わらず真心を込めてお世話を続けられてきました。真珠湾で
の攻撃で意識不明になり捕虜になり終戦までアメリカ本土に収容されていた酒巻和
男さんは、昭和21年に帰国すると郷里の徳島県阿波町に戻られますが、すぐに三机
を訪れて宿泊されたそうです。
最近では開戦から60年以上を経てこれらの方々も齢を重ね、なかには鬼籍に入られ
た方もおられるなど、年とともに訪れる人も少なくなってきています。それでも今
でも、慰霊祭には毎年欠かさず参列し、また勇士を偲ぶ資料を大切に保存されてい
ます。玄関にガラスケースに入れられて、「九軍神」の写真や乗組員が旅館で寛ぐ
写真、また手記や関連書籍など貴重な今では手に入らない資料が展示されています。
そして、平成7年には岩宮家のお一人である岩宮満さんが、九軍神の事績と三机の
人々との温かい交流や慰霊に尽くした姿などを後生に遺すために、『特潜勇士と軍
神宿』(あきつ出版)から刊行します。しかし、一般書店では販売されず、ご遺族
や戦友や心ある方々の協力を仰がざるを得なかったために、県民や一般の人たちの
関心を呼ぶことはありませんでした。今日では在庫は殆どないそうです。しかし、
拝読してみると勇士の本当の姿や遺族の気持ちなどが行間から伝わり涙を禁じ得ま
せんでした。今回、久し振りに旅館を訪れましたが、岩宮家の子孫で経営されてい
る山本恵子さんの姿を拝して、戦後国が蔑ろにしてきた戦没者の慰霊を、こうした
黙々と地域でそれに関わる戦没者をその本当の姿を守り継承する地道な努力により
支えられ行われて来たことを、肌で感じ感動するとともにまた胸が痛む思いが致し
ました。
○勇士の姿、生き方を広く伝え、
地域の慰霊祭を継承して行くために
《青年有志による慰霊祭の意義》
真珠湾では、機動部隊の華々しい戦果が人々の耳目を引き、それに較べて特殊潜
航艇による攻撃は殆ど顧られることはありません。しかし、この攻撃は、単なる戦
果、現象的側面からのみ評価を下すべきものではありません。前述しましたように、
これは戦いに赴いた青年たちの熱い至純な精神が軍の幹部を動かして実現しました。
開戦当初から自らの生還を考えず、攻撃成功の有無に関わることなく、攻撃終了後
は上陸して最後まで戦い抜くとの固い決意で出撃してゆきました。
その意味で、戦争末期の神風特別攻撃隊の魁となったと言っても過言ではないと思
います。
自分中心の生き方が蔓延する今日の風潮からは、全く信じられない生き方かも知
れません。しかし、自分より周囲の人や国の行く末を案じその為に自らの生命を賭
ける人がいたことは歴史的事実なのです。国の長い歴史の中で、様々な国難を乗り
越えて国の存在とその発展に尽くした人たちがいた、それで今の私たちは国民とし
て生きている。戦争の評価を下す前に、そうした事実をしっかり認識して感謝を込
めて、その人たちを称え、生き方や精神、事績を次の日本を担う人々へ正しく継承
してゆく、これが先人たちがそうしてきたように今の日本に生きる人の責務ではない
かと思います。
そして自分たちの住む地域、また郷土にそうした先人がいた国を守った地域に関
わる先人たちを敬うことは、またそこに住む者にとって大切な行為ではないか思い
ます。その地域から慰霊の灯が消え、事績を称える声が絶たれようとしている、愛
媛でも小さな慰霊祭が継承の危機に瀕しているとの話しをしばしば耳にします。
今回の青年有志による慰霊祭は、地域の国を守った先人の御霊を慰め、それを機会
に多くの人に伝えてゆく大きな契機として行われました。岩宮旅館の山本さんに伺
いますと、8月30日の特殊潜航艇発見の報道後、マスコミも一般の方も誰も慰霊に訪
れた人はないと仰っていました。私共が初めてで大変喜ばれました。
慰霊なき戦後日本、先人への感謝を忘れた日本の悲しい現実を垣間見た思いが致し
ました。
昨年、真珠湾攻撃からちょうど60年目の年に三机に近い宇和島の県立宇和島水産
航行の漁業実習船、「えひめ丸」がアメリカの原子力潜水艦に衝突され、沈没し九
名の貴い命が失われました。その後、船体、遺品、そして遺体の引き揚げ、返還を
求める県民世論が盛り上がり、日米両国政府・軍隊そして県当局のが一体となり取
り組みました。結果、引き揚げと返還が行われました。「えひめ丸」が沈没した海
域の近くから特殊潜航艇が60年前に出撃してゆきました。その1隻が発見されても、
艦、遺品、遺骨を引き揚げ、返還を求める声は今のところ日本の何処からも聞こえ
てはきません。戦没者、遺族の語らざる慟哭の叫びーー今の日本人は誰も耳を傾け
ないのでしょうか。
*最後に「岩宮旅館」の概要を記しておきます。ぜひ一度訪れてみて下さい。
住 所 〒796−0502
西宇和郡瀬戸町三机1147
電 話 0894(52)0017
一泊2食付きで、7、000円(税/サービス料込み)
食事のみは、2、000円から(同)
予約制(3日位前までには申し込んで下さい)