教科書問題とは何か B
東温市立重信中学校 大津寄 章三

 個人的なことを書かせていただく。
 先月実家の父が亡くなった。84歳であり年齢に不足はないものの、前日まで車を運転し買い物にも行くような暮らしをしていただけに、急死の知らせには驚かされた。
 その日は私たち「教科書を改める愛媛1000人委員会」主催の講演会およびパネルディスカッションの当日であった。前衆議院議員で俳優の森田健作氏をお迎えし、控え室では彼の企画する映画について歓談するという望外の幸福な時間も持つことができた。引き続き行われたパネルディスカッションでは拓大の藤岡教授をコーディネーターとして、私もパネラーの末席に連ならせていただいた。千人に近い方々に来場していただき、せまる採択戦に向けて何よりの力となった会であった。

 控え室に戻り、お疲れ様でした、と言い合っているときにその急報は入ってきた。ただちに日赤に向かったが、救急車で運ばれてきたときすでに父の心臓は停止しており、主治医による懸命の処置にも再び鼓動を刻むことはなかった。聞くと朝から動悸や息切れがひどいため母が通院をしつこく勧めたそうだが、普段から我慢強い父は相手にしなかったという。しかし夕刻近くになってさすがに自覚症状もあったのであろうか、もうすぐタクシーがくるから、という母の言葉に素直に従い、玄関に座って待っている間に不意に死が訪れたらしい。保険証や財布をそろえた母が玄関に行ってみると、座ったまま崩れおちるような姿勢で動かなくなってたという。

 講演会の最後に今夏の採択に向けての大会決議文が朗読・採決された。原文は私が書かせていただいたものであったが、どうもその朗読が終わった時刻あたりに亡くなったらしいのである。これはきっと偶然の出来事なのであろう。しかしそれを聞いたとき私は「この会が終わるまで父がその死を待っていてくれたのだ」という思いを払拭することができなかった。父は息子の私が血道を上げている教科書運動などには取り立てて関心があるほうではなかった。しかし、もしその死が数時間でも前に訪れていたら、私は大事な会に急な穴をあけざるをえなかったであろう。また亡くならないまでも深刻な体調不良が伝えられていたとすれば、私は決して落ち着いてパネラーの大役を果たすことはできなかったにちがいない。

 これが天命というものであろうか。一人息子がそのライフワークともいうべき教科書問題に取り組み、西の決戦場ともいわれる愛媛で採択結果を左右しかねない大事な会にかかわっているまさにその時、せがれが起草した決議文を弔辞のように聴きながら、終戦60年の夏、大陸を駆け回った元・通信兵がその人生に幕を引いたのである。私に思うことを存分にさせてやりたい、という父の最後の遺志のようなものを感じたのは、果たして都合のいい身内による深読みのせいだけなのであろうか。

 通夜の席で駆けつけてきた親戚は一様に涙にくれた。
 私より長く故人に係わってきた人びとの他愛もない思い出話を聞きながら、私は静かに悟ったことがあった。
私たち日本人にとって、その祖先の来歴や事績を語ることが歴史教育だとすれば、それはまさに「通夜における肉親や親戚の語り口」であるべきではないか、ということである。
 父はその死に方にも自分流を通したように、人に迷惑や手間をかけることをひどくいやがる性格であった(その意味でも最後の日まで立ち歩き、自己の死にあたって加害者をつくることもなく、かといって身内に介護をさせることもなく旅立っていけた父は十分満足だったであろう)。しかしかりに周囲や身内にかなりの迷惑をかけた人であったにせよ、通夜における周囲の語り口は同じなのではないか。故人があんなことをしたこんなことを言った、あの時は往生したこの時はえらい難儀やった、というよもやま話の中には多くの失敗談や迷惑話も含まれていよう。それは「事実」なのである。しかしその事実は逝った者への非難や追及として語られているわけではない。その「死」を悼み、故人を弔う哀惜の思いから語られる供養のひとつなのである。

 
私たちが自国の歴史を学ぶのも同じではないか。反対派が言うようにわが国の負の歴史を語ることもそれはそれで必要であろう。しかし私たちはこの国に連なり、父祖から命と国を譲られた者として、感謝と報恩、そして懐かしさと愛情をこめてそれらを語らなくてはならないのではないか。国と人のあゆみに対する血の通った思いがまずあれば、負の歴史もまた将来への決意を補強する財産として次代に引き継がれるであろう。
 歴史教育とは、今生きている者が過去をどう切り取り構成するかという理念の問題である。この国に革命を起こすためには、自国の過去を憎悪によって暗く醜く描き出さなくてはなるまい。しかし祖先の命と想いを受け継ぎ、この国に骨を埋めようと思う人びとにとっては、それは親愛なる肉親を亡くした通夜の席において、哀惜の中で語られるべき自己の似姿でなくてはならない。

 
いよいよ夏本番を迎える。

「終戦還暦」の夏、私は県護国神社でお話をさせていただく機会をえた。母の言葉を借りれば「身の丈に合わない」仕事と言えよう。英霊の方々にまじり、かつて兵士であった父もまた息子の未熟な話を聴いてくれるであろうか。  かけがえのない一命を賭して祖国や子孫の未来を守りぬいた方々に対し、深甚なる感謝をささげる教科書をこそ子どもたちに手渡さなくてはならない。  


大津寄先生は今回の原稿で、お父様の死に触れられています。そのご葬儀に参列させて頂きました。そのとき喪主挨拶で先生が、絶句されてお父様への想いを語られた姿が脳裏に浮かびました。私事ですが、私も昨年同様の経験をしました。自ら死者を祀り敬う営みの日々を過ごすなかで、原稿のなかにある青字の部分は特に体験的に感じたことでもありました。先祖や父母の御霊を守り、その遺志や想いを受け継ぎ生きて行くことと、英霊のそれも根本的には同じであると、人として日本人として大切なことを述べられています。 その意味で、この文章は、今の日本に生きる全ての人々に、自分自身に置き換えて、決して切り離すことの出来ない両親やご先祖との繋がりのなかで、今喧しく報道されている靖国神社参拝問題の本質を体験的に問うものであろうと思います。

ぜひ、この文章は多くの人に読んで頂きたいと切望します。 会合や学習会などでご活用頂き、8月15日の講演会には、ご近所やお知り合いの方などを誘ってお越し下さい。

*コピー配布可
講演会の要項は、当HPをご覧下さい)
以上 白石 記

h17. 7. 4