参考)ホンジュラス日記より
(引用編集責任・白石)
〈涙と笑みの語る物〉  
  彼らには「涙を流すのは、悲しいことと悪いことがあったときだけ」「微笑んだり笑ったりするのは、楽しいときとうれしいときだけ」という感覚があるようだ。
 日本の両親からの手紙を、私は部屋で読んでいた。読みながら涙が止まらず、じっと読み返していた。そこへいつものごとく、いきなり家族が入ってきた。家族は私の涙を見て「ミヨ!どうして泣いているんだ!あ、その手紙のせいだな。一体誰からなんだ?」「日本の両親だよ。」「え!日本の両親がミヨを泣かすような手紙を送ってくるのか!それは悪い手紙だ!破って捨てよう!ミヨのためだ。」・・・私はやっとのことで、その場を納めることができた。
 また家族が「日本の歌が聞きたい。」というので、持ってきたリコーダーで日本の歌を吹いたり、歌を歌ってあげたりした。そんなとき文部省唱歌の『ふるさと』という歌。この歌だけはどうしても、私は涙なしで歌いきることができない。私が歌いながら涙ぐむと、すぐに家族は「どうして泣くんだ!その歌は悪い歌だ。ミヨもう歌わない方がいい。」と気遣って?くれる。

〈家族〉
 今日も午後からずっと停電している。ろうそくの火を灯して起きておくのもうざくなってきたので、暗くなってからさっさと寝ることにした。
 いつものように今夜も、うちのママや子どもたちと、「おやすみ!」とキスをし合って、私はベッドに横になった。暗い天井を見上げながら思った。「クリスマス以前よりも、より、私はここの『家族』に近づけたような気がする」と。
 このクリスマス、年越しと、この一族とお祝いの準備からパーティまで、同じ時間を過ごしてきて、より彼らと親密になれたような気がする。私は一族ではないが、それでも、私を仲間に入れてくれ、共に生活する家族として扱ってくれた。この年末二大行事は、「普段は遠くにいる家族、一族が一同に集まり、絆を深めたりまた確認しあったりするもの」そんな意味合いがあるのだろう。彼らはそれをしっかり実行して、一族で楽しんでいた。

 しかし考えてみると、私の大学以降の年越しは、「家族」を全く忘れて「友達・仲間・先輩方」の外へばかり目が向いていたような気がする。日常の生活もそうだったかもしれない。彼らとの付き合いは実際、充足感があったし、彼らを大切にしたいという気持ちも強かった。またそれを「自我の確立に従って、血のつながりに頼らない人間関係を創り上げることができるのは、ひとつの発達課題の達成の形だ」などと、自分なりに殊勝そうな理屈をつけて納得していた。「家族へ、内へ」戻そうとする両親に対して「子離れができてない」などと、横着なことを言ったこともある。まったくをもって親不孝者だったと反省する。
 日本の一月の「睦月」という意味も、「家中の人が仲良く睦み合う月」という意味だろう。人間の基本の大切さを、ここで彼らに教えてもらったような気がした。

〔補記〕
今回の連載を読んで、上智大学の渡部昇一教授の次の言葉が心に浮かびました。

「学校の教育についてもしかり。自分たちの親父の代、その前の代、先祖の代の、偉く立派だったことを教えなければ、人間のよさやすばらしさなどをイメージ出来るわけがない。
                    (中  略)
一般的には、よく先祖の墓参りをする家の子供は、だいたいよく育っている。年に一度でも二度でも、おじいさんやおばあさんの墓の前で手を合わせる。そういう場に連れて行ってもらっている子供は、そこに生命の流れを見るのだ。親父は祖父に手を合わせた。自分も親父が死んだら墓に手を合わせるか、というような流れがイメージとして出来上がってくる。そういうよいイメージをつくれるかどうかが大切なのである。」
『自分の壁を破る人破れない人』より

 私事で恐縮ですが、昨年身内を亡くし法事など祀りごとや相続など、次々と行ってゆくなかで、多くの遺族の方と出会い話をする機会がありました。その中で、特に高齢の方からは、最近は子供や孫が墓参りをしない、先祖の祀りを大切にしないと嘆く声をよく聞きました。少子化という日本のカントリーリスクというべき問題もあるのでしょうが、戦歿者のみならず、人々の生活のなかでも、死者を祀り先祖を敬う人間にとっての当たり前で大切なことが失われつつあることを体験的に実感しました。先祖からの生命の流れの営みなくして、いくら家庭の大切さを説いても、家族の深い絆は育まれないことは言うまでもないことです。
 海外での生活で、祖先や家族の大切さを体験としてしっかり自覚した今回の文章には、新鮮な感動と共に反面、祖先との生命の流れの断絶した日本の現状、それを人として生きる上での基本的なこととして教えられ、伝えられていないことを、いみじくも現しているように思いました。

 最近では見直されつつあると聞きますが、戦後に入り世代を超え歌い継がれてきた「ふるさと」をはじめ日本の唱歌が教育の現場で歌われなくなったことも、また先祖の生命の流れが絶たれてきた証左のような気がします。自分たちが生まれ育った国や郷土そして家族を愛し懐かしく思う感情は世界的な普遍的なものであり、人が等しく魂の底に刻まれているものだと思います。生命共同体としての国、それを長い歴史のなかで築きあげてきた先人たちの生命をの流れを理論や理屈でなく、感動をもって自覚し伝えてゆくことが大事だと改めて感じました。

来月11日は日本の誕生日、建国記念の日です。或る意味では日本のご先祖たちの歴史や事績に心を寄せ、日本への愛情や誇りの源について学ぶ格好の機会、祖先から繋がる自分の存在を感じる機会です。ぜひみなさん挙ってお越し下さい。
詳細はこのホームページで紹介しています。
もどる

H17. 1.18