参考)ホンジュラス日記より
(引用編集責任・白石)
《国旗への感覚》  
 ここでは、ホンジュラス国旗を飾ったり国旗のシールを貼ったりして走っている車やバスをよく見かけるし、町角や店先にどういう意味なのかよく国旗を掲げてある。しかし、ホンジュラス人の中にはかなりアメリカ合衆国様崇拝者が多く、ホンジュラス国旗を飾ってあるからといって愛国心がどうこうとは思えない。だから、まだよく分からないが、彼らの国旗飾りは特に深い意味があるわけではなく、「自分の国の旗、だから飾る。」くらいの気持ちだろうかと思う。

 しかし、もしもこれが日本だったらどうだろう。友達の車に乗せてもらって、その車内に日の丸が飾ってあったとしたら、友達の家へ遊びに行って彼女の部屋に日の丸が飾ってあったら・・・。そんなことをすれば、すぐに「え、右?」と、とりあえずワンクッションあるのは間違いないだろう。
 考えてもみれば、私も含めて日本人は国旗に対して、どうしてこれほど異常なアレルギー反応を示すんだろう。過去の戦争との関連だろうが、そもそもどこも国旗というのはそれぞれの国を命がけで守り、戦ってきた人々の血や涙などの深い感情が染みこんでいる。日本ほど「国旗について安易に自分の意見を語るのは危険」という国民が他にいるのだろうか。
 これがいわゆる『過剰な反省』の一つだと思う、というと叱られるのだろうか。

《国際的な基本動作》
 授業観察の後は、私は「お礼」と言って数種類の折り紙をプレゼントすることにしている。とても喜んでくれるので、私の方もとても嬉しい。
 すると今度は子供達の方から「お礼」と言って、歌を歌ってくれることがある。そんなときはだいたい「ホンジュラスの国歌」を歌ってくれる。みんな右手を胸に当てて、教室に飾られているホンジュラス国旗を見つめながら歌ってくれる。1年生の小さな子どもでもそういう態度を取る。
 ここの公立の小学校では、国旗掲揚と国歌斉唱が法的に義務づけられている。確実に全ての学校が毎朝それを実行しているかどうかは分からないが、私が学校訪問するソナゲラ市周辺の学校ではよく行っている。また仮に行っていなくても、人々はそれが大切なことだという気持ちを胸の中に持っている。

 私が「お礼に、日本の国歌を歌いますね。」と言ってお返しをしようとした。すると、なんと! 子供達は条件反射的に起立する。そして彼らは私が歌い終わるまで、そのまま起立の姿勢で聞いていてくれるのだ!
 最初、ウッと恐縮したがこの反応はどの学校へ行っても同じだった。そんな彼らから私は大切な事を教えられたような気がする。そして「これと同じ状況が日本だったら、日本の子供達はどんな態度をとるだろうか」と考え込んでしまう。自国の国歌だけではなく相手国の国歌を聴くとき、はたして日本の子供達はこのような反応をするだろうか。ちょっとそうは思えないのだけど・・・。
 
 国際社会の中では政治信条にかかわらず、自国の国旗・国歌に対して敬意を表するのは国民として最低限の常識だと考えられていると思う。少なくともここホンジュラスの多くの人は、そう思っている。またそれはここで出会った、カナダ人やアメリカ人からもそれを感じた。
 日本では戦争との関係で国旗・国歌を否定する議論もあるが、私にはそれはあまりにも偏った見方に思えてしまう。ここに来て、より強くそれを感じるようになった。しかしこれは慎重に考えなければならないことだと思うので、しっかり情報を集め柔軟に考え続けていく気持ちでいたい。
 しかしどうしても「国旗掲揚と国歌斉唱は、国民としての当然の行為」として考えるのは、世界共通の常識だと思えてしまう。それらが思想信条の自由に侵害であり強制行為なので憲法違反だといった批判や、児童の権利条約に抵触するから納得できないという考え方は、国際社会の中ではどこか的を外れているような気がしてならない。

 私が「日本の国歌を歌う」と言ったとき、一斉に立ち上がった子供達はその常識を体得している。だからそう反応した。それは思想の強制をされているのではなく、国民としての最低限のマナーを示してくれたことのように思う。
国旗 法的には義務づけられたものの、日本の小学校ではまだまだ国旗・国歌への異常アレルギー状態が続いている。この日本の環境で育った子供達が、つまり自国の国旗・国歌に対して敬意を払えない教育でそだった人たちが、果たして他国の国旗・国歌に対して敬意を払えるだろうか。ところが、国際社会では、ある外国の国旗・国歌に対して敬意を表さなかったら、本人にその意思が無くても、それは間違いなく相手の国と国民に対する一種の侮辱だと受け止められるのが常識だろう。
 つまり、国民としての最低限の道徳・常識を欠くことは望まない国際的トラブルの原因ともなるのだ。「国旗・国歌へ敬意を表すこと」これは「思想の強制」ではなく「国際的な基本動作」なのだ。このままでは国際社会の中で、あらぬ誤解を招く日本の子供達が増えるのではないかと心配してしまうのだが、どうだろうか。
〔補記〕
連載に関するちょっといい話を一つ・・・・・
今秋、藤井田さんが勤務する小学校でも運動会が行われました。当然国旗日の丸も校舎の屋上に掲げられはためいていました。運動会を見に行った方が、その後、匿名で(公務員とか言ってました)その日の丸が本当に美しくて綺麗なことと、学校の姿勢を称える葉書が送られてきて、それが職員会か何かの会で紹介されたそうです。この話を本人から聞いて、愛媛の学校では当たり前のように掲げられている日の丸、また国旗国歌法案が成立して公共機関でも掲げているところは多くなりましたが、道すがら、汚れたり破れたりしたものもみます。掲げないより掲げたほうがマシと言われるかもかもしれませんが、国旗を自分の中でどう理解しているのか、普段から大切にしているのか、その意味で真っ白な日の丸を運動会に掲げ、地域住民を迎えるこの学校は、しっかりと子供たちに教えてるんだろうなと思い嬉しくなりました。また、そんなことは世界のどの国でも行われている、人として、また国というものなかで生活を営んでいるものの当たり前の姿―世界的常識であることが今回の連載に記された彼女の体験でよく分かります。
 未だ卒業・入学式シーズンにはそぞろこのことが政治問題化され、またその是非が問われるこの国−ホンジュラスの子供たちや先生方はどんな感想を持つのでしょう?ぜひ聞いてみたいものです。

 さて、いよいよ今回から国のあり方を問うテーマになってきましたが、その意味で今最も注目される拉致問題にも彼女は、示唆に富んだ意見(体験)を日記に記しています。それを無断?である失踪者の方に見せたところ、大変感動されていました。その姿を見て改めて拉致また失踪者の家族は日本を背負って、長い間孤高の戦いを強いられてきたのではと感じ胸が熱くなりました。その人たちにとって日の丸や家族というものは、もの凄く重くて深くてそして何よりも慈しむべきものなのでは・・・と最近しみじみ思います。

次回をお楽しみに。皆さんの感想やご意見お待ちしています!皆さんが良い年を迎えられすよう、心から祈念します。
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H16.12.18