参考)ホンジュラス日記より
以下、2年間の詳細な日記から今回の連載に関するものを引用させて頂きました。
日記の提供と引用を快諾頂きました執筆者の藤井田さんに、心からの謝意を表します。
(引用編集責任・白石)
 最近「どうして?」と思うことがたくさんある。
 まずソナゲラの人は、水がもったいないという感覚がない。次いつ水が来るか分からないのに、大きなバケツの水が残り少しになってもバサバサ使う。私が「無くなったらどうするの?」と聞くと「無くなったときはあきらめる。知らない。」と言う。お金の場合でも、日本人は将来の生活のために貯金しておこうという、貯蓄好きと言われる。私はやはり日本人なのか、水も「安心な量を溜めておいて、少しずつ大切に使いたい。」と思う。しかしここの人はある時にバンバン使い、無くなったときは無くなったとき、と考えている。だから、水が水道から出始めたら溜めておくのだが、バケツから水があふれてもずっと水は出しっぱなし。
 ここソナゲラ一帯は昔から水不足のため、2000年にスイスが貯水タンクをODAとして援助した。そのおかげで、たまに水道から水か出る生活ができるようになったのだ。援助のありがたさを、住民として感じる。しかしその貯水タンク、見てきたがソナゲラ全体をまかなうというとそんなに大きな物ではない。やはり市民が協力して節水の意識を持たないと、必要なときにはなくなる。
 私が、家族に「水がもったいなくないの?」と聞くと「安いからいいの。全く問題ないわ。」と言う。いや、お金の問題じゃなくて・・・。と思うのだが。ちなみに「どれだけ使っても、水道代は同じなの?」と聞いてみたら、彼女はなんとも不思議そうな顔をして「どうして使った量が分かるの?」と聞き返した。あ、それもそうだ。メーターなんて付いてないよな、と気付いた。

 また、日常の生活を見ていてこんなことがある。例えばの一例を挙げてみたい。
 ロープを切ってそれで荷物を縛るとき、普通は「これくらいの長さなら、とどくかな?」と、念のため荷物にロープを回してみるだろう。でもここのおっちゃんたちは、適当に切ってから「あ、足りなかった。」とまた別のロープを切る。でも、また足りなかった。とまた別のロープを切る。そしてついに切れるものがなくなって、彼は新しい長いロープを買いに行った。
 ある日、私は家のお隣さんの作業を手伝っていた。大きな袋に荷物を入れるとき、私は「どうみても、この量はこの袋に入らないよなぁ。」と思う量なのに、彼らはどんどん入れてみる。そして袋が一杯になってから、まだ半分以上も残っているのを見て、やっと「あ、入らない。」と気付く。
 また先生方対象の講習会で、計算カードを作ってもらった。厚紙の端からつめてカードをおいていけば十分足りる大きさなのに、先生方を見ていると大きな厚紙の適当な所にバラバラにカードを作っていっている。それでははしたの部分ができて、厚紙が足りなくなる。切る前に説明したが、私の説明がまずいのか分かってもらえない。結局、切ってしまってから何人もの先生が「厚紙が足りないよ。」と言いに来られた。
 毎日こういった、何かのとても驚くことが起こる。しかし私も人様に物言うほどの先見性のある人間でもないのだが、こういった計画性というか、全体を見る力はどうやったら育つのだろう?かと思ってしまう。直接体験や体験活動は、日本の子供達よりもよっぽどたくさんしてきているはずなのに。
 またホンジュラスの電気は、ほぼ100%が水力発電だ。この電気の使い方についても水と同じで、誰もいないのに昼間から部屋の電気がずっとつきっぱなしになっている。よく停電が起こるが、彼らは別にあわてない。ある時には無駄だと思うくらい使って、無くなったときは仕方がない、と思う。こんな使い方の感覚だから、土日などは計画停電をされるんだ、と思ってしまう。停電の復旧には時間がかかり、そして停電によって冷蔵庫内の物が腐り、食中毒が起こる。

 こういった信じられないような出来事を、理解したいと思ってよく考えてみた。そこでひとつ考えられることがある。
 ここの人たちの『別に気にしない。』の価値観だ。「水が無くなっても別にいいじゃん。」「電気がないと困るけど、そのときはろうそくがあるしそれでいいじゃん。」「ロープが無くなれば新しいロープを買えばいいじゃん。」「袋に入れてみて入らなければ、また入れ替えればいいじゃん。」と。彼らは常に『別に気にしない』のだ。水に関して言えば、ここの人たちは私ほど「水がないと困る!」とは思っていない。こんなに汗をかいても、一・二週間くらい手も洗わなくても平気だと言う人はたくさんいる。
 「○○は無いと不便だから、あった方がいい。」「作業は、より効率よくした方がいい。」「物は、合理的に無駄なく使う方がいい。」「時は金なり。大切に。」などと思ってしまう私の方が、より窮屈な生き方なのかもしれない。合理化と効率化は経済効果と利潤の追求のためには欠かせないことだと思うが、それは返って精神的にはゆとりをなくすことなのか?

 しかし一方、ゴミの投げ捨ても「いらなくなった物を捨てるだけ。どこか間違ってる?」自分は身軽になっても、町が汚れる。しかしこれも『別に気にしない』のだろうか。  約束の待ち合わせ時間に、平気で何時間も遅れる。商店は、その店のドアに張ってある閉店時間は守るが、開店時間は守らない。バスの出発時間も適当。算数の講習会開始時間の定刻に来ている先生は、全体の3分の1くらいだけ。そういった時間に対するルーズさも『別に気にしない』からなのだろうか。
 私はいつもハラハラするバスの無謀運転とスピード狂。カーブの多い山間部の国道で、他のバスと並んで走り抜くか抜かれるか競い合ったり、先がカーブで100b先も見えないというのに他のバスを追い越しにかかたったりする。だからあと数秒遅かったら、対向バスと正面衝突という場面が何度もある。それも「事故ったって別にいいじゃん。人間は死んだっていくらでも赤ちゃんが生まれてくるんだし。」『別に気にしない』のだろうか。まさかそれはないと思うが・・・。
 停電してもすぐに復旧作業に取りかかれば、少しでも食中毒を防ぐこともできるし、水を大切にして水で体の清潔を保つように心がければ病気やそれに伴う死亡例も減る。しかし電気も水に対しても、さほど必要感を感じていないのだから、なくても『別に気にしない』のだろうか。実は「命」がかかっていることなにに。
 自分だけに関わる『別に気にしない』のは自由だが、ゴミのポイ捨ては公共を汚すとか、時間に対してはそこに待っている人がいるとか、バスの運転は他人の命を預かっているとか、その辺りの考えはどうなんだろう?そんなことをあれこれ考えていたら「ミヨ、何そんなこと気にしてるんだ。気にするな気にするな。」とホンジュラス人の声が聞こえてきそうだ。

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 村落開発の分野で派遣されている、あるホンジュラス隊員が話してくれたことである。  彼は村落開発の立場から、あるとき任地の小学校をまわっていた。貧しい家の子どもたちは、ノートや鉛筆類を用意することができない。
 彼が行ったある学校では、教室を見わたすと大半の子どもたちが何も持たずにただ椅子に座っていた。先生と話すと、「ノート類があれば勉強の効果があがるのに。でも貧しいから買えない。」ということだった。子どもたちも、ノートが欲しいと言っていた。ちょうどその頃、彼の出身の大阪市が「少額だが何か援助として送れる物はないか。」っと言ってきていたので、ちょうどいいと思いノートと筆記用具類を送ってもらうことにしたそうだ。
 その後、何かのキャンペーンで配った残りという感じの広告入りだが、立派なノートが千冊ほどと鉛筆消しゴム類が送られてきた。彼はそれを持って学校へ行き、子どもたちと先生に、これは日本の好意で送られてきたこと、勉強するために大切に使おうという話をして配った。大切に使ってもらうために、その場でノートに名前の書ける子には書かせた。喜んでいる子どもたちの顔を見て、彼も満足だったそうだ。
 しかし、驚いたことにその日子どもたちが帰った後の教室には、今さっき配ったばかりのノートや鉛筆類がいくつも転がっている。破られたり踏まれたりしているものもあった。彼らのさっきの喜びは一瞬のことで、もう忘れられているかのようだったそうだ。
 次の日、学校に行ってみると昨日配ったノートを用意して勉強している子は、もう誰もいなかった。今までの授業中同じように、何も持たず、文字も書かず隣の子とおしゃべりをしながら、ただその時間を過ごしているだけだった。
 彼はそれを見て愕然としたと同時に、今まで他でも感じてきたボランティアの限界を改めて感じたそうだ。私もそれを聞いて、なるほどと偉そうながらにも一種悟ったような気持ちになってしまった。
 「ノートと筆記用具をもらったから、よし、これでしっかり勉強できるぞ。頑張ろう!」なんてほどは思わないにしても、せめて「好意でくれたものだから、大切に使おう。少しはこれで勉強しやすいな。」ぐらいの気持ちになってもよさそうなものだが・・・。しかしその前に、国民一人一人にこちらが期待していたような勤勉さと向上心、そして物を大切に使おうとする感覚があれば、これだけ援助漬けのこの国はもっと以前に発展している。
 今ごろになってやっと分かってきたのだが、要はODAがいっている『自助努力』なのだ。
 私は日本にいるとき、途上国のことを想像して「途上国では物がないから、みんな物を大切に使っているんだろうな。日本はこんなに、使い捨て浪費社会でいいのかな。」と思っていた。また学校では、毎年教室に出てくる鉛筆や消しゴムなどの大量の落とし物、これも物があふれている日本だからこその現象なんだろう、と思っていた。
 しかし、ここへ来てそれはとんでもない誤解だったと分かった。水や電気をはじめ、物に対する無駄遣い感覚は、意外にも日本とは比べ物にならないくらい、こちらの方がひどい。

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この生活文化の違い。その国の実情に合わせたものが浸透しているのだろうから、日本のものと単純比較はできないとは思う。でも、周りのホンジュラス人がそうでなくても、私は流されずに時間を守り、約束を守り、他人の物はとらず、部屋はいつもきちんと整理し、脱いだ靴や服はきちんとたたみ、『ゴミ拾い大作戦』を継続し、食事の時はいただきますを言い、他人の部屋へ入るときはノックをして・・・生活していこうと思う。約束の時間人が来ないのが分かっていても、約束の時間と場所で待っていよう。ここにそういった日本人が住んでいた、というだけでも何か意識づけられるのではないだろうか。
 ホンジュラスに染まっていいところと、染まるべきではないところがあると思う。上記のようなことは、よく考えれば日本の生活文化では、基本的なことだが当たり前に大切なこととされている。しかしこれは日本だけに当てはまることではないと思う。こういった人間の基本的な大切な意識を整えていくことから、この国の変化が始まるように思う。
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H16.10.25