■国体と歩兵22連隊

 松山城のふもとにはかつて歩兵第22連隊が置かれていた。
 初陣は日清戦争であり、平壌攻略の一番乗りを果たし武名を轟かせた。日本軍の先鋒として雪中行軍し、多くの凍傷、脚気患者を出しつつも清国内まで攻め抜き、その進撃は下関での条約交渉を日本優位に導いた。日清戦争での死者は220名(うち傷病死172名)。

 日露戦争では乃木大将の下、旅順攻囲戦の正面口ともいうべき東鶏冠山攻略に活躍した。攻略後すでに大半の将兵が負傷していたが、さらに奉天会戦に参加して激戦を展開、この戦いぶりは、22連隊旗手櫻井忠温中尉の世界的ベストセラー戦記「肉弾」に詳しい。以来、22連隊は「伊予の肉弾連隊」と畏怖されるようになった。日露戦争での戦死者は653名、負傷3891名、行方不明671名。

 大正時代にはシベリア出兵に参加、零下50度にもなるシベリアで共産革命軍と交戦した。ノーウォザルダミンスコエの戦いでは、約500名で赤軍3000名を圧倒、日本軍の他部隊では長引く出兵で士気が低下したが22連隊ではそれは見られず、名誉連隊として凱旋した。出兵期間1年7ヶ月。戦死17名。

 第1次上海事変では松山出身の白川義則大将の下、上海在住日本人の保護のため、駆逐艦に分乗して上陸し、シナ十九路軍を急襲して撃ち破り、嘉定城に一番乗りした。上海上陸後1か月を待たず快勝、白川大将の水際立った指揮と麾下部隊は、陛下よりお褒めの言葉を賜った。当戦役では戦死8名、負傷病兵42名。
 第2次上海事変では敵前上陸を敢行して敵陣を突破、南京を目指した。22連隊は中国の民衆を保護しつつ行軍を続けたがその死傷者は多数に及び、一説に将兵の四分の一が戦死したと言われる。出征期間は約8か月。数百名の戦死者の白木箱が次々に松山駅に到着し、多くの愛媛県民が涙で出迎えた。

 大東亜戦争においては、22連隊から約500名がメレヨン島の守備に派遣された。メレヨンは、敵潜水艦により補給の途絶した絶海の孤島であったため、将兵の約9割が餓死、病死する惨状であった。ただしこのような危機的状況においても島の住民からの略奪は一切行われなかった。島民は事前に疎開せしめられており、戦後も慰問に訪れた日本人を温かく迎えている。

 満州に配属されていた22連隊は昭和19年8月、最期の地となった沖縄に転戦となる。沖縄戦では、卓越した戦術によりアメリカ軍の侵攻を何度も撃退した。真栄里で徹底抗戦を続け、同地にてアメリカ軍沖縄攻略部隊司令官バックナー将軍は日本軍の攻撃により戦死した。
 しかし戦局利あらず、6月、米軍は22連隊本部の洞窟に爆薬を投げ込み、連隊本部は全員戦死した。翌日、沖縄本島を守備する日本軍の玉砕が発表された。しかし、玉砕時も連隊本部から離れていた22連隊兵士たちはなおも糸満南方で徹底抗戦を続けている。
 そして戦死した。郷里・松山に生きて帰った兵士はいない。

 先日、松山城のふもとを訪れた。今月末の国体を前に多くの業者や関係者が草刈りや芝地の土入れに立ち働いていた。
 前回この地で国体が開催されたのは昭和28年秋のことである。その際、初めて沖縄からの特別選手団が派遣された。沖縄を守るため玉砕した22連隊ゆかりの地を彼らは堂々と行進したのである。御臨席された昭和天皇はその姿に感動され、次の御製を詠まれた。
 
 沖縄の人もまじりていさましく広場をすすむすがたうれしき

 今も連隊のあった堀之内には「歩兵第二十二聯隊跡」と
 「最も愛情ある者は 最も勇敢なり」

という櫻井忠温の言葉を刻んだ石碑が建っている。

 歴史を知らないどこかのうつけ者が置いていったカップ焼きそばのゴミやハシを拾いながら、ふと初秋の風の中に64年前のどよめきが聞こえたような気がした。

(H29・9月)

城山から見た松山歩兵第22連隊兵営
          (城山から見た松山歩兵第22連隊兵営)

参考:歩兵第22連隊(Wiki)
    歩兵第22連隊
    松山歩兵22連隊(西村眞悟の時事通信)
    愛媛の郷土部隊 歩兵第二十二連隊の生存者が語った沖縄戦の真実
    歩兵第22連隊(Weblio)沖縄戦での行動記録
    第70話の@ 松山歩兵第22連隊凱旋式・・写真・・(泰弘さんの【追憶の記】です・・・)
    幸地の戦闘(こうちのせんとう)沖縄戦史 公刊戦史を写真と地図で探る「戦闘戦史」
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H29.10.12