愛媛の郷土部隊 歩兵第二十二連隊の
生存者が語った沖縄戦の真実
*平成12年の講演から

  日本会議愛媛県本部会長(当時) 久松定成先生 来賓ご挨拶

 私、今護国神社に参って来たところです。改めまして、今次戦時中で亡くなられた英霊に対し心より哀悼の意を表します。
 今から五十五年前の本日は、本当に暑い日でございました。私は当時、陸軍航空士官学校に在籍しておりました。丁度二ケ月程前の六月二十三日は、沖縄が玉砕という誠に痛ましい事態に陥りましたが、その総司令官牛島中将は、私が東京陸軍幼年学校へ入りました時の校長閣下でございました。そして、八月十五日の早朝、私共は阿南陸軍大臣が切腹されたことを伺いました。この方も以前東京陸軍幼年学校の校長をしておられ、若手将校に人望の高い、陸軍髄一の君子人といわれたお人でした。心からお慕い申し上げていたお二人を亡くし、私はどうにもやりきれない気持ちでした。

 そして間もなく、上に立たれている方が次々と自殺なさいました。その数は多く、何百人もおられるので、いちいち挙げる訳には参りませんが、航空関係で申し上げますと、特攻隊を作られた海軍の大西中将が自刃され、宇垣海軍中将も、終戦の報に接してから敵艦に突入して行かれました。陸軍では、航空本部長の寺本中将、第四航空軍司令官隈部少将らが自決されました。また、陸軍士官学校においても、まだお若いのに自決された区隊長がおられました。大変な混乱の中、だんだんと陛下の御心が伝わりまして、情勢は収まって参りましたが、私はその時いろいろ考えました。誠に不幸な時代でしたが、そういう方々は、夫婦や家族でも構いません、周囲に対して責任を持っておられる、非情に強い責任感から立派に戦われ、あるいは自決という道を選ばれたのだと感銘致しました。またその根源に流れていたものは、「愛」だろうと存じます。家族やその住む故国に対する熱い愛の思いですね。

 ところで、最近はこういった責任感とか愛といった思い入れが、どうも若い人に欠如しがちな傾向があります。十七才の犯罪などが多いようですが、彼等は自分さえ愛することができないのではないでしょうか。新聞によりますと、平成九年以来、未成年者の犯罪が成年犯罪より数が上回りしかも凶悪化しつつあります。愛媛県ではまだ未成年者の犯罪の方がやや少ないようではありますが、いずれにせよ大変なことです。

 今日は終戦記念日に際し、小城先生をお招きしまして、お話お聞きすることになりましたが、沖縄の激戦の中で、どういうふうに各戦士が責任感を持って戦われたか、そしてその奥にあった愛の心を知って頂きたいと思ったわけでございます。そしてこういうものがを少しでも若い方の心に伝われば嬉しい次第です。三島由紀夫も言っていましたが、いわゆる知識人とは、真ん中から左であって、防衛力を否定する絶対平和主義者でなければ弾き飛ばされてしまう訳です。そういう時代は確かにございました。しかしそれは誤りだと存じます。このように世の中が崩れて参りますと、我々もしっかりしなければいけないし、先人達の素晴らしいところを子供達に伝えて行きたいと思っている次第でございます。また、そうすることによりまして、郷土部隊である二十二連隊の諸霊の方々の御心が癒されるのではないかと存じます。





体験者が語る沖縄戦の真相
ー郷土部隊・歩兵第二十二連隊の沖縄戦ー
元歩兵第二十二連隊第一大隊長
小 城  正氏


一、『天王山』 執筆の契機


 ほんの偶然のきっかけから、ある高名な米国の作家から沖縄戦を取り上げ記録文学として本を書きたいということで、米国の方では充分に研究を重ね当時の関係者に取材をして用意ができ上がっていたが、今度は日本側の話も聞きたいということで東京に来られました。そして縁があって早川書房に飛び込み、沖縄戦について取材したいが誰か適当な人物はいないかと聞いたところ、私が戦記物の翻訳を早川書房から出しておりましたので、「それなら小城さんという人がおられます」と紹介されて、東京の陸奥宗光伯爵邸の跡地が国際文化会館(学問の研究や文化交流などのためにやって釆た外国の人たちが気軽に泊まれるように作られた施設)となっていて、そこに一部屋借りていた本人と、そこで会った次第です。その人はジョージ・ファイファーという人で、北海道や東京でもたくさん取材し松山にも来たそうです。また九州や沖縄にも行ったが、今ひとつという思いがあったということで、あなたは英語ができるから是非相手になってくれと言われまして、そこで

彼とテープレコーダーをそばに置いて話をしました。まる一週間かけて朝から晩まで自分が米国で研究して疑問に思い、知りたいと思っておったことを、三十も四十も箇条書きにして持ってきていて、それを一つずつ私に聞くわけです。私は同時通訳ができるくらい英語がしゃべれますので、相手の言うことには何でも答えられましたし、士官学校出のプロの軍人で自分の専門のことですので、ファイファー氏は私の答に満足して米国に帰りました。

 そしてその後、二、三年たってから、「沖縄戦と原子爆弾」 という副題で、『天王山』という題名の本を書き上げました。『天王山』 とはアメリカ人である彼が付けたのです。同氏は調べているうちに、沖縄戦が始まったとき小磯首相が、今度の戦いはこの戦争の天王山であると言ったことが記録にあったのを読んで、それを本の題にするくらいよく勉強されていました。それが、たくさんの人に取材をしたあと構想を練って、いぎ書こうとしたところ、部隊の名前だけでも第三十二軍、第二十四師団、第六十二師団、第四十四混成旅団、金沢の第九師団とあります。その下にまた、第何連隊とあります。連隊の中には大隊があり、大隊の下には中隊があるというように、沢山あって何処から手をつけてよいのか迷っていたが、何度もテープを聴いているうちに私との問答がいちばんよくわかったとアメリカから電話をかけてきまして、あなたを日本側の主人公にして書くことに決めたと言ったのです。アメリカの主人公は近所に住んでいるストーブにくべる薪を切ったり、薪割りをしている人が海兵隊員として沖縄戦に参加した人で、よく沖縄戦の話をしてくれて、『天王山』を書くきっかけを作ってくれた人なので、その人を主人公にして書いた『天王山』 が出たのです。

 私は戦後、あんな玉砕に近い形で生き延びて帰ってきたのだから、たくさん死んだ私の部下の人達や同期生の慰霊のためにもぜひ書けという人もいました。しかし私自身は、おめおめと自分が生き永らえていることが非常に大きな心の重荷となっていまして、絶対書くまいと思っていたのですが、このアメリカ人が書いたものを翻訳するものは私をおいて他にない、自分が体験したことであり、英語にも強いのでやりましょうということで、これなら独り生きて帰った者が思い上がって本なんか書いてということにはならないと思って、彼が書いた本の翻訳を引き受けたわけです。


二、アメリカの価値観に洗脳された戦後日本

 皆さんは殆ど私と相前後した年齢の方、あるいは年上の方がおられますのでおわかりだと思いますが、戦争に負けアメリカに占領されたあと、二度と日本がアメリカを相手に戦うことが出来ないような国にするというのが、マッカーサーの、つまりアメリカ政府の方針でした。その後日本人は占領軍によって精神的に金玉を抜かれて情けない状態になってしまいました。そのなかでも、何百万という若者を犠牲にして戦った大東亜戦争が終わったこの有意義な日に、靖国神社に総理大臣が参拝しないような国がどこにあるか、と私は思っています。靖国神社には東條さん以下のA扱戦犯を祀っているからけしからんと中国から言われ、それに気兼ねして参拝しないらしいんですが、あなたはどこの国の総理大臣なのかと言いたいのです。

 中国の文化と日本の文化は違います。孔子や孟子の儒教の影響の強い中国の文化は良いことばかりでなく、死者に対して非常に冷たい、罪を犯した者は殺してその肉を食うとか、その墓を暴いてまた首をちょん切るとか、正義の名のもとにそういうことをするのが当たり前です。

 我が国は死んでしまえば、皆仏様です。死者に鞭打つことはしないという言い方があります。死んだ者にまた鞭を加えてこの野郎というのは、日本の文化ではないのです。支那人がそう言うからと顔色をうかがっている、今日、靖国神社あるいは護国神社に参拝しないあなたはどこの国の政治家だと言いたいのです。戦犯が祀られているから靖国神社から戦犯を別に移して公式参拝しましょうと言っていますが、何を言っているのだ、戦犯とは誰が決めたのか。アメリカの手で復讐的な東京裁判で裁かれて絞首刑になったのは全部我が国の指導者です。その方々はその時々の情勢で、手に入った情報をもとに一所懸命考え、判断して、日本のためによかれと決心して日本を指導してくれたのです。子供ではあるまいし、戦争が好きで戦争を始めたとアメリカに言わせればそうですが、未だにアメリカのものの考え方、アメリカの価値観で良いことと悪いことの判断をしています。我が国がそういう情けない国になってしまっているのでこの際、沖縄戦のあり方を取り上げるについても、私が腹が立ってしようがないことを皆さんに一言聞いてもらえる機会だと思って参りました。


三、外国人が讃える日本軍将兵

 同時に、新聞はその時その時の流行りのことを盛んに囃し立てて、自分たちの新聞が売れるように騒ぎます。今は警察ばかり叩いていますが、医者ばかり叩いた頃もありました。我々軍人は戦後五、六年、ラジオも新聞も悪口ばかりです。過去の歴史をけなして、全く二度とアメリカ相手に戦うことができないように骨抜きにしてしまいました。いちばん根本に立ち返ってものを考えないといけない政治家が、子供の時に日教組の教師にこういう考え方を吹き込まれているものですから、六十才になっても細川総理のような日本の歴史について何が正しいのか何が悪いのかをおわかりでない、今の総理大臣もそうですが、情けない状態になっています。こんな状態は日本人だけです。

 私は英語が達者なお陰で、防衛庁の渉外幕僚という仕事をしておりました。仕事は東京にある各国大使館付武官という軍人(大佐から将官まで)との窓口で、ある一面では毎晩のように女房に着物を着せて今日はアメリカ大使館、次はイタリア大使館などと華やかなパーティで、トップレベルの外交官同士のお付き合いの仲間に入っていたことがあります。そのときに知ったのですが、東京の世田谷に特攻観音というところがあります。そこで年に一回お祀りをする時には代々のトルコ大使館付武官が必ず参如します。それからインドの大使館付武官が、「小城さん、支那事変の作戦のときに第何師団かが書いた戦闘教令という戦いのやり方を書いたのを貰えないだろうか」と言いましたので、取り寄せて翻訳して渡しました。「そんな古いものでなく、新しい自衛隊のものはいくらでもあります」と言ったら、「いや自衛隊のは結構です、帝国陸軍のものが欲しいのです」と言いました、何故かと聞いたら「あの大東亜戦争を見てみなさい、『最後の一兵まで』という小説がありましたが文字通り太平洋の島々を守って最後の一兵まで戦った軍隊はどこにもない、世界一立派な軍隊だ、私たちはどうすればそういう軍隊が出来るのか知りたいのだ」と言われて、私も目が覚める思いがしました。外国人はアメリカに洗脳されたわけではありせんから、そういう目で見ています。総理大臣が今になっても、A級戦犯だ何だと言っているのは日本人だけです。それは恥知らずで太鼓持ちの日本の新聞や雑誌が、長い間囃し立てたからそうなったのです。私はそう思っています。今から沖縄についてお話をすることも、そのつもりでお聞き願えればと思います。


四、沖縄の概要と沖縄守備隊の配置

 そこで本論に入ります。沖縄は軍の名前で大きく三つに分けまして、一番南が島尻(しまじり)郡(首里、那覇など)で、人口の大部分が集まっている所です。その北の嘉手納地区のアメリカ軍の東洋最大の空軍基地がある所一帯を中頭(なかがみ)郡といいます。それからずっと北の瑞まで山ばかりある所を国頭(くにがみ)郡と、三つに分かれています。私たちが居た頃は国頭へは船でないと行けませんでした。アメリカが占領してからはブルドーザーで海岸沿いの道を作って、大体一周出来るようになったようです。その辺りはハブの島です。よいところは谷間谷間に水田が作れるので米がとれます。戦争が終わっておふくろに教わったのですが、「琉球へ来るときゃわらじ履いておじゃれ」という歌があるそうです.琉球は何処へ行っても岩だらけです。だから靴や下駄ではなく柔らかい藁の草履を履いていらっしゃいという歌です。ほとんどどこでも十センチも表面の土をいじくると下は岩です。さつま芋くらいしか出来ません。私はびっくりしましたが、木で作った左官のコテみたいなヘラで土をひっくり返して芋の蔓をおいてゆくのが沖縄の農業でした。それ以外の所はさとうきびです。さとうきび畑と芋畑しかない所です。芋が沖縄の人たちの主食でした。

 米軍は嘉手納に上陸して、取りあえず北の方へ攻めて行きます。日本軍は殆どいないので、また南下してきました。私に言わせればものすごいヘマをしたわけです。その前から毎日B25という四発の飛行機が定期便みたいに飛んで偵察をして写真を撮り、沖では潜水艦が潜望鏡で写真を撮るなどして、半年以上も偵察を続けました。それなのに、こんな有様です。あそこは元々私たちの師団が居たのですが、第九師団がいなくなってそう手を拡げていられないので軍は兵力を島尻の方に集中したのです。彼らが上陸してきたのは飛行場の警備隊が少し居るだけで文字通り無人の野原と言ってもよい所でした。そこへ大艦隊がやって来て全力で艦砲射撃をするわけです。全くの無駄弾です。ここに海兵隊が上陸して日本軍のいない所に行って回れ右をするようなことをしました。敵が嘉手納付近に上陸して来ることはわかっていました。それで最初は嘉手納に私たちの二十四師団、島尻の大事な所に第九師団、その真ん中に歩兵ばかりの砲兵も工兵も殆どいない第六十二師団が居て、敵が嘉手納に来ても、島尻に来てもどちらかの師団がそちらに増援して反撃するようになっていました。


五、前線に出る前の爆雷暴発事故

 嘉手納飛行場の海岸に居るときに、大きな事故がありました。この部屋を横に半分くらいに仕切った大きさの部屋で、丘の中腹にある農学校の建物でした。こんな立派なコンクリートではなく平屋建ての木造で、地面から腰の高さまで腰窓があって両側は天丼まで何もない所でした。そこに様々な農作業の道具が並べてあって、農作業に行くときに農機具を仕分けしたりする小さな小屋でした。そこへ連隊長が大隊長以下の各隊長を全員集めて、何処にどういう陣地を作るかという作戦計画の説明がありました。その頃、米軍の戦車をやっつけるのに当時の日本軍の速射砲という戦車を撃つ砲では米軍の戦車は鉄板が厚くて効果がないので、木箱に火薬を何段も何列も入れ、それを釘付けにし、藁縄で背中に背負って行き、それを戦車の下に放り込んでやっつけるという苦し紛れの戦法を採りました。それが急造爆雷で、その試作品が出来たので、この席で紹介するということになり、会議が終わった後、兵器係の将校がテーブルの上にその箱を置いて風呂敷包みを広げていた最中にドカーンと暴発しました。持っていた本人は長靴を履いていた足が残っただけでした。板壁一つ仕切った部屋で会議の後の宴会の準備をしていた兵隊が二人ほど即死、そこに居た各隊長は全部なぎ倒されて負傷して野戦病院lに担ぎ込まれました。私は大隊長でしたから、各隊長が並んでいる一番前に座っていました。今、耳が聞こえるのはおかしいと言ってよいほどの事故でした。爆発の瞬間、高速度写真で見るときのように、机の脚と板が離れる瞬間を目撃したのを覚えています。壁や天井は吹っ飛び、残ったのは文字通り柱と梁だけで、そこへ舞上がった木片が倒れていた私の上にバラバラと落ちてきて、それで気がついて息を吹き返し、病院へ行ったという状態でした。連隊長、大飯長、中隊長全滅と言ってもよい状態でした。

 それから間もなく、寝ていると耳だれがダラダラと出て糊で顔を枕にくっつけたみたいになり、高熱が出て入院して大隊長を免職になり、野戦病院にいる間に米軍が上陸してきました。いよいよ上陸するということになった時、連隊に帰してくれと軍医に言ったら、「あなたは脳に通じる所に穴を開けてあって、膿が出てくる所に包帯を交換しながらやっているのに、一歩間違えば脳にパイ菌が入っておしまいです。そんな重症患者を連隊に帰すわけにはいかない」と言われました。私は元気の良い方でしたから、私の付添に来ていた当番兵がいましたので、彼に連隊に帰って私の馬を持ってきてくれるように頼みました。そして軍医に黙って馬に乗って部隊に帰りました。

 頭に包帯を巻いたままの状態で連隊に復帰したのですが、私が入院している間に後任の大隊長が来ておられましたが、その人は第一線にいるとき、まるで傘をさしたみたいに掩蓋のある丘の上の壕の中に入って状祝を見ていた時、そこに敵の駆逐艦の弾が命中して、その人は何処にいったのかわからないくらい吹っ飛んでしまいました。ついその前の晩、第一線の兵隊が居耽りしているところを米軍に襲われ陣地を取られたものですから、私は野戦病院から帰って連隊の仕事をしておったのですが、連隊長がカンカンに怒って、どういうわけだ、様子を見てこい、ということで、連隊長の当番兵からせしめた連隊長の酒を持って会いに行ったばかりだったのです。そういうわけで、またお前行けということになり、頭に包帯を巻いたまま元の大隊へ帰ったのです。


六、実感した日本軍と米軍との戦いの違い

 そういうことで第一線に出ましたが、とにかく米軍と日本軍と全く次元の違う世界の軍隊みたいに違います。日本軍は時代後れもいいとこでした。第一次世界大戦の西部戦線のフランス軍の服装を見てご覧なさい。沖縄戦の頃の日本軍と全く同じです。脚半を巻いて、外套を着て、その上に背嚢を背負い、外套の裾をたくり上げて前の方でボタンで留めてというように、格好は全く日本軍と同じです.日本軍は大正三年か四年、一九一四年から一八年まで続いた第一次世界大戦の時のままなんです。それから三十年たってますからいろいろと進歩し、米軍の持っている大砲の射程距離は全く話にならないほど日本軍のものより大きいのです。沖縄沖合十二キロはどの所に満潮になったら隠れてしまうくらいの珊瑚礁、リーフがあります。米軍はそこに大砲を十二門備えつけました。こちらの砲は沖縄本島からそこまで弾が届かないですから、軍も全く予想していませんでした。そこまで届くのは十五センチカノン砲といって、陸軍としては最も大きな大砲です。砲身だけ八頭の馬で引っ張ってきます。また、台車は台車で八頭の馬で運ぶという具合です。米軍はそこに十二門の大砲を備えつけて、牛島大将のいる今の沖縄大学の、当時の師範学校があった山の中腹に横穴を掘ってトンネルを作った軍司令部に、朝から晩までひっきりなしに弾を撃ってくるのです。ものすごい量でした。馬の背中に乗せたり、馬車で弾を運んでいた日本軍には想像も出来ないような力ですね。

 米軍は第一線で戦をしているうちに後ろからどんどんプルドーザーでトラックが通れるような道路を作ってきます。第一線中隊の後ろまでジープで小さなトレーラーを引っ張ってきます。それに機関銃の弾などを一杯積んでその後ろまでやって来るのです。こちらは昼間は物凄い量の砲弾で撃たれ放しといった状態で、こっちの機関銃撃つ弾の音よりも速い速度でダタダダーーーッと砲弾が落ちます。テレビでご存知のように、ストンストンと自動的に大砲の弾が発射位置に落ちては発射されるのがありますね、あれです。第一線に私が行ったときは一個大隊約八百名位いました。それが二週間もしないうちに二百人位になりました。三週間目には七、八十人位になりました。畑を耕すみたいにここにドカドカーーーッと撃ってきたら、その向こうにドカドカーーーッ、その横にまたドカドカーーーッと撃ってきます。そこで今度はここへ来るぞということはよくわかるのですが、たまに昼休みと思うくらい休みがあるだけで一日中撃っているんです。だからいくらタコツボに入っていても直撃弾を受けたりして、どんどん損害が出ました。そういう戦で全然次元の違う軍隊同士が戦ったという感じでした。

 海軍は一応世界の海軍を相手に戦う軍艦を揃えていたようですが、日本の陸軍の指導者は一体何をしていたのかと言いたいくらいですね。九九式小銃といっても、弾の口径が違うだけ発射するときの操作は明治三十八年に決めた三八式歩兵銃と同じです。日本軍は一発撃つ毎に撃ち空薬莢を出す操作をして、また次の弾を入れて撃ちます。米軍はガチャッと何発か弾を入れて、あとは引金をひくだけです。それを全員が持っでいるんです。だからこっちが横関銃を十丁や二十丁持っているからといって、機関銃は向こうにもありますし、普通の兵隊があきれ返るほど撃ちます。スコールが横殴りに降って来るような感じです。そのうち三発か五発毎に曳光弾(えいこうだん)といって後ろから炎の尾を引きながら飛んでくる弾があります。それを夜撃つのを見ていると、とても顔の面を上げられないくらいです。

 それを大本営と三十二軍のすぐ上にあった台湾の方面軍から、三十二軍は防御ばかりしていないで攻勢をとれとやかましく言ってきました。大本営からも直接督促してきました。そうなると軍司令官としては面子もあり、まして参謀長は長勇という陸軍きってのむこう意気の強い閣下でしたから、そんなことを言われて黙っていられないということで、二回ほど軍は攻勢をとりました。私のように第一線にいる大隊長にしてみれば、穴を掘って弾を避けて戦うからどうにか持ちこたえているのに、この壕を捨てて出ていったら一変に砲弾に包まれてやられるのはわかっているのにと思いましたが、どういうわけか大本営は攻勢をとるように要求してきました。しかし、それをやったために急激に兵力が減りました.二回攻勢をとりましたが、そうしなければおそらく沖縄に原子爆弾でも落とさなければ、とても米軍は占領出来なかったと思います。それくらいわが方の装備は全く勝負にならない程度でしたから、夜間攻撃・夜襲をやれというわけです。支那事変までは相手が支那軍相手でしたからこれで効果がありました。ところが米軍になりますと、いったんカサカサとその辺を豚が走り回って音でも立てようものなら、一度にスコールが降り出したみたいにジャンジャン撃って小くるわけです。だから部隊としての夜襲はとても成り立ちません。


七、沖縄県民の被害の主な原因は米軍の無差別射撃

 沖縄県民が十何万も軍よりもたくさん死んだ第一の原因は、住民は軍事的な訓練を受けていませんから夜、子供の手を引いたお年寄りが道は知っていますから避難しようとします。それが運悪く足音が米軍に聞こえると弾のスコールです。さっき艦隊が上陸する前に全艦隊を上げて日本軍がいない所に無駄弾を撃ったと言いましたが、彼等は無駄とは思っていません。日本は貧乏だから勿体無いと思いますが、彼らはいくらでも撃ってきます。私が敗残兵になったとき、敗残兵狩りにやって釆たアメリカ兵が四、五名連れで藪などを見て弾を撃ち込んで行くんですが、見ていると鉄砲を担いだままトントントンと撃つのがいます。ノルマの分だけ弾を消耗しようというのでしょう。無駄弾といっても披らの場合それだけ考え方が違います。だから最後に摩文仁の丘まで追い詰められたとき、崖といっても上の方の台上にはちょっとした松や藪ははえていて、その中に潜んでいると米軍が掃討戦でやって来ます。そうすると沖縄の住民の人はおっかないものですから、その藪の中を逃げるわけです。カサカサと音がしますから、そこに居るとすぐわかります。

そこへ物凄い弾を撃ち込んでくるので片っ瑞からやられました。私達はじっと伏せて、すぐそこまで来てこれは危ない、自分がやられるとなったらやってやろうと、ピストルを手に持ったまま、興奮と恐怖とで手が震える状態でも見つかるまで我慢して、見つかった瞬間に手榴弾を投げるなどします。住民の人はそういう訓練を受けていませんから、恐ろしいとじっとしていられません。だから、あんなにたくさんの犠牲が出たのは、アメリカ軍が目標を確認せずに、めちゃくちゃに撃ちまくったからです。「射撃軍規」という言葉がありますが、射撃は指揮官の命令で撃つ、指揮官の命令で撃ち方をやめる、そういう厳然とした軍隊の規律が米軍にはあるのかないのか、全くデタラメな軍隊だと思いました。考え方、基準が違いました。非常に痛ましいことですが、そのことが原因で沢山の沖縄の人達が犠牲になりました。


八、勇敢に戦った愛媛の勇士

 それから折角東京から愛媛まで来ましたので、愛媛の勇士のお話をします。私の連隊の隣の大隊は、田川慶介さん(松山市出身)という同じ愛媛出身で私より士官学校一期上の人が大隊長でした。その部下に私より一期下の陸士五十五期の、名前は忘れましたが木口君という大尉がおりました。これが全く軍神という言葉がぴったり当てはまるような素晴らしい将校でした。明けても暮れても雨霰と飛んでくる米軍の迫撃砲弾やロケット砲弾の弾幕の中で、兵隊と同じようにタコツボに入ったままビクともしないで中隊をしっかりと掌握しておられました。米軍の攻撃の様子を見ると、攻撃してくる時には陣容を整えているのがわかります。戦車が動き回って決められた位置にき、それ行けということでやって来ます。それを見ていて、「大隊長、あそこへ戦車がウロウロしていますが、私が行ってやっつけてきますから、やらして下さい、いいですか」 と言うんです。それで「お前、一回だけだぞ、中隊長がそんな無理なことをしたら困るから」と言ったら、陣地にいれば安全なのに陣地を捨てて兵隊を三、四人連れて、中隊長自ら爆薬の箱を背負って、今から攻撃しようと支度をしている米軍の方へ行って、戦車に忍び寄って爆薬で二両吹っ飛ばしました。ドカーンドカーンとすぐわかりました。それは勇敢な人でした。それでまた行きたいと言うから、もうやめてくれ、そう再々やったのでは相手も警戒しているし、君は大事な隊長だから今回かぎりでやめてくれと言っで、やめてもらいました。いよいよ上からの命令で攻勢をとることになった時、木口君の部隊を参加させることになりました。木口君は隣の第三大隊の第九中隊長でした。一個大隊を差し出せという師団命令で田川さんが大隊主力をひきいてよその師団に配属になって行く時に、一個中隊は置いておくこことになり、私に預けられておりました木口君が、「小城さん、私はどうしても田川さんと馬が合いません。田川さんの下で戦をするのは気が進みません。田川さんが帰ってきても、もう引っこ抜けませんという状態にしてほしいので第一線に出して下さい」と言って来たのです。

それまでは私は自分の部下の中隊だけを第一線に出して、木口君の中隊は後ろにおいて予備隊にしておりました。そのうち兵力がどんどん減ってきて、第一線が手薄になってきましたので、木口君も第一線に出てもらいました。そして攻勢をとる際に軍の指導で、私の大隊で一個中隊を参加させろということで木口君の中隊を出したら、案の定一人も帰ってきませんでした。壕から出ていって米軍に突っ込んだのはいいけれど、その後の砲撃で叩かれて、それと一緒について行った工兵の下士官が一人帰ってきただけです。その他は全滅しました。その時の木口君は、軍刀ではまだるっこい、銃剣を持って行きますと言って、死んだ兵隊の銃を取って、銃剣術に自信があったのか、それを持って先頭に立って行きました。惜しいことに木口君は失敗に終わった攻勢で戦死されてしまいました。軍神と言ってもいいような立派な働きでした。正直言って二十二連隊の中身は大方入れ換えられて北海道の兵隊が大部分になっていました。それでも、二十二連隊の持っている伝統、雰囲気というものがありますから、木口君だけではなく兵隊さんも皆立派でした。

 私は日本軍のやることは旧式だと言いましたが、日本軍は朝起きて銃剣術、昼飯がすんだらまた銃剣術と、歩兵は銃剣術を鍛えてました。だから防御していて敵が目の前に迫っても、早く来ないか、来たらやってやると自信があるわけです。だから八百名の大隊が四、五十名になって八百名と同じ陣地を持っていても米軍を寄せつけない、米軍も怖がって突っ込んで来ないという状態で、兵隊があれだけの自信を持っていたことは無駄ではなかったのですが、もう銃剣術で勝負する時代ではありませんでした。攻撃していて弾の撃ち合いになったら、月とスッポンくらい違うわけです。敵の火網の中に入ったとたんに全滅してしまうくらい、持っている装備が違います。木口君を将校の代表としてあげるとすれば、兵隊がどんどん少なくなって戦線を縮小しないと隙間だらけで危ないから、ちょっと配置を変えようとすると、「ここで死なして下さい。」と動かない、それはもう立派なものでした。


九、軍に積極的に協力した沖縄県民
   −県民と軍人の絆で戦われた沖縄戦


 沖縄県民の疎開ですが、どうしてあんなにも損害が出たのか、疎開されなかったのかと思われるかも知れませんが、疎開させたんですよ。先程申しましたように国頭地方は戦場にもなりませんでしたが、食べ物や寝る所もない、それも二日や三日じやなく一ヶ月も二ヶ月も疎開したところで暮らせますか?だから長い間にはみんな元へ戻ってきます。だから軍隊と一緒におったので、あんな無惨なことになりました。本当に痛ましいことでした。そういう状態ですから、どんどん兵隊が少なくなって行くだけでなく、初めは立っておれるような壕の中にいて撃っていますが、朝から番まで砲弾が炸裂するものですから、どんどん土が積もってきて、膝撃ちの射撃に使うような形になるほど壕が浅くなってしまうのです。そうすると、また明日から敵の砲撃を受けるし、攻撃も受けるから一晩中かかって壕をまた掘り直し、そして撃った弾も後ろへ取りに行かないと誰も持ってきてくれません。飯も誰も持ってきてくれません。何故かというと、そういうのは本当はちゃんと輜重(しちょう)隊がおって後ろから弾も食料も運んで来てくれます。そういうのが建前でしたが、もう兵力がなくなってしまいましたので、輜重(しちょう)隊の中でも馬車で荷車を引いて物を運ぶ部隊は全部歩兵になり、銃を取って第一線に立ちました。トラックで動いている自動車大隊だけは輜重(しちょう)兵として働いていました。そういう状態ですから昼間は連日戦ってその間中、撃たれっ放しです。敵が攻めてくるのは午前一回午後一回です。それで疲れ切っているのに夜は壕を掘り、弾を取りに帰り、負傷者を後ろに下げてやったり、戦死者を仮埋葬で埋めたりと、やることはいっぱいあるわけです。そういう状態で飯も食えません。そこへ私たちの居た部落の女子青年団の人達がおにぎりを作ってカマスに入れて第一線まで運んでくれました。

 第一線の後ろは無事かというと、そうではありません。道路のめぼしい交差点は全て、日本軍が移動出来ないように一晩中弾を撃ってきます。交通遮断射撃とか、引っ掻き回すという意味で擾乱射撃と日本軍は言っていましたが、そんな生易しいものではなく、日本軍が突撃する時には、突撃支援射撃と言って全力を挙げて撃って、突撃を支援するのですがいたる所、夜も昼もあの日本軍の突撃支援射撃なんかとても目じゃないというほど撃ってくるのです。どの交差点にも間をおいて集中射撃が加えられます。そういう所をかい潜って女の子達がおにぎりを届けてくれました。そのおかげで、一日一食ですけれどご飯を食べて三週間以上、同じ陣地で頑張ったのです。

 部隊は夜襲など出来ません。闇に紛れて攻撃しようにも、話にならないのです。陸軍も照明弾を使いましたが、海軍のでっかい大砲で撃つ照明弾というのは桁違いなんですよ。ひっきりなしに駆逐艦や巡洋艦が空に撃ちあげる、それが島中を真昼以上に明るく照らします。一晩中そういう状態が続いているから夜襲なんか成り立ちません。かと言って何もせずにはいられないから日本軍は切り込みというのをやりました。切り込みというのは、二人か三人で組を作って闇に紛れて敵の陣地に潜入し、手榴弾や銃剣で攻撃を加えるという形で何回も何回もやったので、米軍は将兵がノイローゼになるくらい怖がったらしいです。インドの武官が言ったように、何処にそんな軍隊がありますか。将校が指揮をして、下士官が命令を下して、先頭に立って行くから怖いなかでも兵隊が動くんです。それを兵隊だけで、お前とお前というようにやっても平気で行くんです。それは勇敢なものでした。だから、どうしてそんな軍隊が出来るのかとインドの武官が言ったのもわかって頂けると思います。

 日本軍の飛行機は全部やられましたから、米軍は軽飛行機を飛ばして観測しているので、それで日本の砲兵が一発撃つとすぐわかります。そして暫くすると戦闘機がやって来て、両わきに抱えたロケット弾をシューッと撃ちます。あれも戦場で初めて見ました。最初は何だろうと思いました。爆弾の後ろから火を吐きながらやって来ます。それで大砲は片っ端から潰されてしまいました。砲兵は撃つのが仕事ですが撃てば発見される、発見されると必ずやられます。私は敗残兵になってから戦場をウロウロして食料を捜したり、隠れ場所を捜したり、壕から壕へと渡り歩きましたが、もとの砲兵陣地のあとに行きますと、砲門をトンネルの出口の所に出して撃つと引っ張って中へ隠すようにしてたんですが、入口をロケット弾で潰されて砲兵陣地は全て土に埋まって、大砲の脚のいちばん後ろが見える状態になっていました。

 戦車はどうなったのかというと、たとえば木口君のように機先を制して、向こうがやって来る前に明け方に攻撃をして爆破したりてしまいました。そのうち明るくなって戦車がやって釆ましたが、それに友軍の十五榴の弾が直撃弾となって当たって砲塔が吹っ飛んでしまったことがありました。また日本軍の対戦車砲つまり速射砲は米軍の装甲を突き破ることが出来ないと言われていましたが、それでもキャタピラーを目がけて撃つわけです。そこに命中させるとキャタピラーがはずれて動けなくなります。擲弾筒(てきだんとう)というのは歩兵を追い散らすものですが、兵隊は勇敢なものですから戦車が来たということで擲弾筒を撃ちました。それが砲塔に当たって爆発しますと、敵の戦車が回れ右して逃げて行きました。戦車で苦労した正面はあったかもしれませんが、私たちの正面では兵隊が勇敢だったので、戦車は怖いと思いませんでした。

 他の陣地が全部やられて私の大隊が、鉛筆芯の先の尖った所みたいな形で頑張っていたとき、軍司令部が押さえられそうになって危ないから戦線を縮小するから下がれということで下がりました。その時のことです。私の壕の地下に前の部隊の負傷兵が寝かされているというので何段も階段を下りて地下二階くらいのところまで行ってみると、そこに負傷兵が寝ていました。私が下りて行って「俺の大隊はここから下がるから米軍が来るぞ、君たちも下がりなさい。」 と言ってよく見ると、豚の脂を燃やした灯のかたわらに女の子が一人だけで、負傷兵が三、四人を看護していました。そしてその女の子は「私はここに残ります。」と言うのです。私としてはもはや何も言うことができませんでした。海軍の沖縄根拠地隊司令官の太田少将が、大本営へ最後の電報を打ったときに、沖縄県民はこんなによく戦った、戦後格別の御配慮をお願いしたい、と言っておられますが、その通りでした。軍と一緒にいなければ飯も食えないということもありましたが、先程のおにぎりを運んでくれた青年団といい、ひめゆり部隊だけではなく、多くの人達が各部隊毎に軍に協力して戦いました。時間が参りましたので、以上で終わります。


※沖縄戦における軍と住民との協力についての御自身の体験を中心とした、追加の原稿を小城氏から送って頂きましたので、茲に併せて御紹介させて頂きます。


 私達が昭和十九年の七月、満州の東部国境から移動してきて沖縄本島に上陸し、嘉手納地区で配置に着いた頃は、太平洋の戦場における戦いは航空戦力によって決せられるということで、地上部隊は飛行場の建設等、航空部隊に対する支援を主な任務とするという大本営からの指示で、今の嘉手納米軍基地で、当時、中飛行場といって舗装もされていない滑走路が一本あるだけの飛行場の建設支援に任じておりました。そして女子学生たちが毎日のように、隊列を組んで遠くから通ってきて、ザルを小脇に抱えて滑走路に敷く小石を運んでくれていました。

 そういった状態で、沖縄の若者は現役兵として各方面の戦場に在り、残っていた中年の男子は防衛召集によって軍に編入されて各種の任務につき、皆さんご存知の通り、学生も男子は鉄血勤皇隊のように軍に協力することになったほか、女学校の最上級生も看護婦の補助要員として野戦病院で教育を受けることになり、沖縄の人たちは根こそぎ動員されて軍とともにあり、残ったのは文字通り年寄りと女・子供だけでした。

 私が大隊長宿舎として一部屋を借り上げて起居していた、中飛行場の滑走路の外れにあった野国という部落(今は米軍嘉手納基地のなかに取り込まれて消滅)の宮平氏の一人娘で首里高女四年生であつたヤス子さんも、看護婦補助要員としての教育が開始されるまでは、毎食ごとに私の食事の世話をしてくれ、私になじんでいたのですが、沖縄戦の末期に野外で砲弾の破片を受けて道端に倒れているところへ通りかかった顔見知りの私の都下の兵隊さんに「隊長さんはどうしておられますか」と問いかけ、「私がここでこうして死んだということを伝えてください」と言って亡くなったそうで、今は「瑞泉の塔」という首里高女の殉難者の碑に祀られていますが、今そのことを思うだけで私は悲痛な思いで胸が一杯になります。

 軍が飛行場の建設支援のかたわら、防御陣地の構築に任じていた昭和十九年つまり米軍の沖縄上陸の前の年の十月十日、沖縄本島は突然、米軍艦載機の大編隊による空襲を受けて那覇の市外が廃墟と化しただけでなく、野外に集積してあっ弾薬及び糧食等に大きな損害を被ったのですが、その翌日、罷災した那覇の市民たちが国頭地方を目指して、西海岸沿いの道を徒歩で続々とやって来る痛ましい婆を目撃しました。

 その一方で、滑走路が一本あるというだけの中飛行場に数十機の海軍機がやって来てしばらく翼を休めると、やがて女学生も含めて私たちが日の丸を振って見送るなかを、それぞれ手を打ち振る搭乗員達を乗せた海軍機が一機また一機と飛び立って行きました。台湾沖航空戦の始まりです。この航空戦は皆さんご存知のように失敗に終わり、このとき飛び立った海軍機は一機を除いて帰ってきませんでした。

 今思えば、この航空戦の戦果についての当時の大本営発表は大変な誤りだったのですが、私達は報じられた大戦果に大喜びで、特別に支給された酒でこれを祝いの酒盛りをしていたところへ、夕闇迫る頃、魚雷を抱いた一式陸攻一機がよたよたとした感じで帰ってきて、ドスンと着陸するなり炎上し始めました。

 着陸の際の衝撃で胴体の下に抱いていた魚雷が外れて地面に転がっており、いつそれに引火して爆発するかわからない、という危険な状態だったにもかかわらず、わが大隊の将兵全員が一杯機嫌だったということもあって、「それ行け」と飛んでいって、機首の風防を叩き割って搭乗員を救い出し、他の者は「よいしょ、よいしょ」と魚雷を転がし火から遠ざけるなど、大活躍でした。

 このとき救い出した搭乗員たちを私の宿舎に連れていって、軍医が応急の手当てを加えているとき、大火傷していた搭乗員の顔全体の皮膚がツルリとむけたことをありありと覚えております。そして、この中の一人が、まだあどけない感じの少年兵だったことが強く印象に残っております。
 そしてこの後間もなく、島尻にいた第九師団がレイテ島の戦いのために転用されることになって島を去り、軍全体としての配備変更が行われて、私たちは今の那覇飛行場の内陸寄りで那覇港南側の台地で、今海軍壕と呼ばれている、元海軍の沖縄根拠地隊司令部のあった豊見城(とみしろ)の高台から糸満に到る間の台上に陣地を構築することになったのです。やがて敵の嘉手納付近への上隆に伴って、ここも捨てて、遭遇戦のような形で首里北方の戦線に投入されたのでした。

★文責 日本会議愛媛県本部事務局

※ 事務局から

 この度掲載させて頂いたものは、大東亜戦争終戦から55年目の平成12年8月15日(火)、松山のえひめ共済会館で行われた、日本青年協議会愛媛祖国と青年の会主催による「郷土の誇りある歴史を語り継ぐ集い」の講演録です。愛媛の郷土部隊であった陸軍歩兵第二十二連隊が、沖縄を守るために死力を戦って玉砕したその戦いの事実を一人でも多くの方に知って頂きたいとの想いで企画されたと聞いています。

 あれから10年がたちましたが、このような事実は愛媛でも殆ど知られていません。最近この記録集を読んだ或る方から、ぜひ戦った事実はもちろん将兵たちの真情や想い、志などを広く多くの方々に伝えて行くための一つとして、ホームページへの掲載をすすめられたのが契機となりました、この度の表題はHP用としてつけさせて頂きました。

 連隊の現場での指揮官で数少ない生存者のお一人の小城氏の話に加え、日本会議愛媛県本部の前会長の久松定成先生(故人)は、ご来賓として大変、意義深く感動的なご挨拶を賜りました。折角の機会ですので、併せて掲載させて頂きました。

 一人でも多くの方々に読み継がれ、次の世代に大東亜戦争で戦い散った方々の想いや真情が受け継がれ、また正しい歴史の回復、そして愛媛県民の戦没者慰霊の中心施設である護国神社や各地域の慰霊碑など慰霊顕彰への機運が高まることを切に祈ってやみません。これを読まれた方はこうしたことへぜひご活用頂きますよう心からお願いします。最後に、この場をお借りし関係者の皆様に心から感謝を申し上げます。

 尚、小城氏の詳細な体験は、訳書『天王山』(以下)に詳述されています。ご関心のある方は一般書店を通じお求め下さい。

ご参考)
*小城 正氏は、大正9年(1920年)鹿児島県出身。陸軍士官学校(54期)卒。歩兵第二十二連隊第一大隊長として戦い生還。詳細は本講演で触れられている訳書『天王山』に詳述。(以下参照)

* 『天王山―沖縄戦と原子爆弾―』著者は、アメリカの作家・翻訳家のジョージ・ファイファー氏。
平成7年に小城正氏訳により早川書房から出版


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