教科書問題とは何か @
東温市立重信中学校 大津寄 章三

 先日、社会科を教えている二年生の女子生徒がやってきて、従軍慰安婦のことについて教えてほしい、と言われた。聞いてみるとアメリカ人の英会話の先生がいるのだが、彼女は先般文科省の検定に合格した歴史教科書のすべてから慰安婦の記述が落ちたことに深く憤っているというのである。その翌日女子生徒をよび、慰安婦記述の顛末と真偽についてレクチャーし、参考資料として「新・ゴーマニズム宣言」第三巻を貸した。以下は数日後に返された本に挟んであった女子生徒からの返信である。

 「とても参考になったしわかりやすくて面白い本でした。この本や先生のお話を聞いたり、自分で調べてみて、いろいろなことを考えさせられました。私は少しの情報で慰安所のイメージを疑うこともなく、とにかく最悪だと決めつけていました。しかし調べてみると様々な発見がありました。そして日本人はアジアの国々に対して良いこともしてきました。今も経済支援をしています。お互いの関係をよりよい方向に進めるためにも、日本やアジアの国々のよいところを互いに認めるべきだと思いました。日本の国民がもっと自分が生まれた国について関心を持ち、他の国々に対して堂々と意見が言えるように心がけなければいけないと思います。英会話の先生にはしっかりと自分なりにまとめた意見を言おうと思います。」

 義務教育の教科書とは「ローレンツの長靴」であろう。アヒルの雛が、生まれて最初に見たものを親だと思ってその後を追いかけていくように、子どもたちが初めてのぞき込む母国の姿は、温かく雄々しく誇りあるものでなくてはならない。この国に生をうけ幸いであった、という「刷り込み」こそが、その後の生きる「腰」を定め、彼を良き公民へと育て上げる道標となる。

 ニートが大きな社会問題となっている。「何かになれるという可能性を捨てきれないため、結局何ものにもなれないでいる若者」の激増である。私たちはすべてを見たのちにもっとも意に沿うものを選択することはできない。限りある人生を深く有意義に生きるために、与えられた運命を正面から引き受け、そこで根を張り枝を伸ばしていくという生き方はもっと重んじられていいのではないか。この国の血を受け継ぎ、この国の言葉を駆使して幸せのかたちを決めていこうとする若者に対して、邪悪な色で母国をふり返らせる視点を教え込むことはほとんど犯罪行為と言っていい。教科書問題とは未来につながる自分の運命をどう定めるかという問題なのである。


h17.5.25