今月の主張
 「日本の息吹愛媛版 平成26年12月号巻頭言」
「国の城濠をまもれ」 
日本会議愛媛県本部会長
 中 山 紘 治 郎
 松山や秋より高き天守閣
「春や昔十五万石の城下かな」とともに、正岡子規のよく知られた名句である。子規が詠(よ)んだ城山には、名画の額縁さながら満々と水を湛(たた)えた城(しろ)濠(ぼり)があった。名城と濠(ほり)は一対(いっつい)であり、濠があるから子規の句の世界も引き立つ。幸い、その濠は今日も現存している。

 ところが戦後の占領下、この濠を全部埋め立て、第二の大街道商店街や高層の住宅地にする計画があった。ことの起こりは、昭和二十三年初秋、堀之内に軍政局をおく占領軍が、衛生上の見地から濠の埋め立てを市に勧告したことによる。翌二十四年初夏、市と議会はまず北濠と西濠をすべて埋め立て、全部を民間業者に売却することにした。占領軍に睨(にら)まれると沖縄で強制労働になる、と噂(うわさ)された時代である。市は軍政局の虎の威(い)を借り、埋め立てを強行しようとした。

 風致(ふうち)と水利の面から反対する市民有志が立ち上がり、軍政局に陳情へ行くも、どなられ、威嚇(いかく)され、追い払われるばかりで、とりあってもらえなかった。戦後、郷里に帰り、松山で弁護士をしていた岡井藤志郎(とうしろう)はこれを見て、軍政局のシャーレー司令官へ陳情書を提出。水源と美観故(ゆえ)に濠は必要であると訴え、八月末に三百人ほどの農家の人たちを連れ、司令官との直談判(じかだんぱん)を決行した。司令官は引き下がらない岡井弁護士を突き飛ばした。岡井は階段を転がり落ちたがひるまず、「命がけの気合い」で再び階段をのぼり、ついに司令官を説き伏せ、「濠の埋め立て勧告は市政干渉であること」を認めさせた。岡井のこの勇気ある行動が、埋め立て案を撤回させ、城濠を保存させたのである。

 岡井藤志郎は横浜地裁判事だった昭和十九年、東条英機首相を弾劾する書簡を二度にわたって本人へ送付し、判事を懲戒免職(戦後に恩赦)になった行動人であった。権力への巧言(こうげん)令色(れいしょく)と忠誠競争が国家の進路を誤らさせた。このままでは、「国家は中心より破滅(はめつ)する」という信念からの行動であった。

 いまふりかえれば、岡井の「命がけ」の行動がなければ、城濠はすべて埋め立てられていたであろう。濠のない松山城では、子規の句も形無しである。私たちも日本を貶(おとし)めることを生業(なりわい)とする勢力によって、日本の国の城濠が埋め立てられていくことを断乎、許してはならない。凡百(ぼんぴゃく)の議論よりも、危急(ききゅう)存亡(そんぼう)、行動の秋(とき)である。





『日本の息吹』平成26年12月1日号「愛媛版」より転載

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h26.12.27