今月の主張
 「日本の息吹愛媛版 平成26年9月号巻頭言」
「ならぬことを鍛錬する教育」 
日本会議愛媛県本部会長
 中 山 紘 治 郎
 佐世保高一女子殺害事件で、すぐ思い浮かんだことがある。もう何年も前、テレビの討論番組で「なぜ人を殺してはいけないか」という問いに、各方面の有識者や教育の専門家が答えていた。詳しくは忘れたが、かれらは善悪や人倫を説くばかりだった。私は腑に落ちずイライラするばかりだった。こんなことに理屈などない。「ならぬことはならんのだ」と一喝する者がいないことが情けなかった。

 民主教育や個性の伸長、自由、平等、人権を尊重する社会を築き守っていくことに異論はない。しかし、私たちは社会の構成員として、「やらねばならぬこと」があり、また逆に「絶対してはならないこと」がある。モーセの十戒も仏教の五戒も理屈ではない。ならぬという律法であり、せよという絶対的な命令なのである。

 十年前、同じ佐世保市で小六女児同級生殺害事件が起きてからというもの、市では「こころの教育」に熱心に取り組んできたという。その報道を耳にしながら、私は「してはならぬこと」を教える取り組みはどうだったのか、と問いかけていた。これこそ、戦後の日本の教育がもっともなおざりにしてきたことではなかったか。そのように思えてならないからである。

 司馬遼太郎の「二十一世紀を生きる君たちへ」のなかには、このような一節がある。「いたわり、他人の痛みを感じること、やさしさ。みな似たような言葉である。この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練してそれを身につけねばならないのである」。

 自由は大切だが、なんでも自由にできるわけではない。むしろ自由でないことのほうがはるかに多い。社会生活はしてはならぬことばかりなのだ。こころを育てることは大切だが、してはならないことを、訓練として、さらには日々の鍛練を通してしっかり身につけさせる教育が必要である。

 万世一系の皇室をいただく日本の国柄のありがたさにしても、これを理屈としてはならない。国柄を愛するこころを鍛錬していく教育の内容と体系がいまこそ求められている。






『日本の息吹』平成26年9月1日号「愛媛版」より転載

前号



h26.10.27