今月の主張
 「日本の息吹愛媛版 平成26年7月号巻頭言」
「憲法改正の覚悟」 
日本会議愛媛県本部会長
 中 山 紘 治 郎
 来る六月二十三日、沖縄県は「慰霊の日」を迎える。
アメリカ軍の本土侵攻の盾となった沖縄戦は壮絶であった。戦没者は二十万人、その半数は民間人である。戦後、沖縄は島のどこを掘っても遺骨が出てきたといわれている。日本と日本人にとって、沖縄はいまも特別な存在である。

 島は焦土になったが、沖縄では今日でも人々に語りつがれ、敬愛されている軍人がいる。那覇の近くにあった海軍の司令部壕で、沖縄県民の壮絶な戦いの様子を克明につづり、沖縄の将来を憂(うれ)う電文を本土へ送って自決した大田實(みのる)中将である。大田は、青壮年はもとより老人も婦人も女子生徒も砲弾を運び、だれもが身を国に捧げる覚悟で斬り込み隊にすら応募してきたことを記し、電文の最後を次の言葉で締めくくった。「…一木一草(いちもくいっそう)焦土ト化セン 糧食(りょうしょく)六月一杯ヲ支フルノミナリト謂(い)フ 沖縄県民斯(か)ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世(こうせい)特別ノ御高配(ごこうはい)ヲ賜ランコトヲ」。

 そして六月十三日の未明、
  「大君(おおきみ)の御(み)はたのもとにしゝてこそ
    人と生まれし甲斐(かい)ぞありけり」
 と辞世の歌を司令部壕の土壁に書き付け、口内に拳銃を差し込み負け戦の責任をとって果てた。

 しかし沖縄への思いをつづった「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電文は戦後の日本への遺言として、沖縄返還運動のなかでよみがえり、祖国復帰後の沖縄の発展を見守り続けている。壮絶な戦闘と迫りくる死を前にし、なお慈愛あふれる電文を後世に遺(のこ)した大田中将はどのような人物だったのか。挿話をひとつ紹介したい。新妻が扁桃腺を腫(は)らし高熱でうなされているのを見かねた家主(やぬし)が、横須賀鎮守府(ちんじゅふ)へ急を告げる電話をした。大田は家に帰ってきたが、「軍服を着て一歩家の外へ出たら、おれはお国のものだ。たとえお前が死んでも公務についている間は帰らんぞ。そのように心得よ」と宣言し、「大事にせよ」と言葉をかけ、鎮守府へ引き返して行った。

 不朽の電文も辞世の歌も、このような覚悟があるからこそ、であろう。ひるがえって今日、憲法改正を掲げる政治家や各界の指導者たちの覚悟はどうか。将来の日本国のため、一命を捧げる覚悟はあるのか。私は安倍総理の「日本を取り戻す」思いと行動力に対し絶大な信頼と期待を寄せ、私なりの覚悟で行動を起こしている。いま皆さんにもそれなりの覚悟で行動することを願う次第である。






『日本の息吹』平成26年7月1日号「愛媛版」より転載

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