今月の主張
 「日本の息吹愛媛版 平成26年5月号巻頭言」
「てふてふひらひらいらかをこえた」 
日本会議愛媛県本部会長
 中 山 紘 治 郎
 種田山頭火の句である。昭和11年7月、永平寺で詠(よ)んだものだが、この句には歴史的仮名遣いの味わいが際立つ。「ちょうちょう」と現代仮名遣いで記(しる)せば、「ひらひら」の副詞は活きてこない。歴史的仮名遣いだからこそ、行乞(ぎょうこつ)の俳僧の解脱(げだつ)への思いや情緒のゆらめきが伝わってくる。

 戦前の教育を受けた両親、なかでも父からの手紙は、戦後になってもずっと歴史的仮名遣いだった。でせう(でしょう)、けふ(きょう)、たふとい(とうとい)などの表記が懐かしく脳裏に蘇る。ふりかえれば戦前まで日本人はだれしも、このように奥ゆかしく情感豊かな仮名遣いの国語をごく自然に使っていたのである。私も子供のころ正月は家族で百人一首のカルタ取りを楽しんだ。絵札や取り札の何首かはいまでも覚えていて、私自身の情緒力に役立っている。「おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときそ あきはかなしき」、「せをはやみ いはにせかるる たきがはの われてもすゑに あはむとそおもふ」など忘れられない歌である。

 現代仮名遣いが当たり前で、ふだんの生活の中で歴史的仮名遣いを目にすることはなくなってしまった。さらに「超〜」、「〜なわけ」、「めっちゃ」、「うざい」、「私(わたくし)的には」、等々現代の世相を映す日本語を耳にすると、もはや日本の国柄にふさわしい国語を書き、話せる日本人はいなくなったのか、という思いに暮れてしまう。

 今日、確固とした社是のもと、歴史的仮名遣いを使っているのは、私の知るかぎり月4回毎週月曜日に発行される「神社新報」だけである。私は産経新聞を愛読しているのだが、「神社新報」が届くと、たっぷり一週間かけて味読する。新聞に肌触りというのも変だが、歴史的仮名遣いで表現された文章に書き手の品格と誇りを感じる。とくに文化欄のコラムはしんしんとこころに響くものがある。
 
 先日同紙に、こんなことが書いてあった。「日本語の伝統を守る心は、日本の美風を守る心につながります。本紙は『歴史的仮名遣ひ』と美しい日本語を使用することで、伝統的な日本文化の護持を呼びかけてゐます」。

 日本は古代より「言霊(ことだま)の幸(さき)はふ国」である。歴史的仮名遣いに言霊の力を感じるのは私だけではないと思う。愛読する産経のせめて文化欄には、歴史的仮名遣いの復活を願う一人である。皆さんのご意見をぜひお聞きしたいものだ。






『日本の息吹』平成26年5月1日号「愛媛版」より転載

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