[日本の息吹 10月号巻頭言」
「日本のこころ・一遍上人」 
日本会議愛媛県本部会長
 中 山 紘 治 郎
 八月十日、道後の宝厳寺が全焼した。国の重要文化財である一遍上人立像(りゅうぞう)が焼失してしまった。表現できないほどの喪失感がある。誠に残念でならない。皆さんも、きっと同じ思いでありましょう。

 一遍は改めていうまでもなく、正岡子規が「古住今来(こんらい)当地第一の豪傑なり」と評した郷土愛媛の偉人である。今日では、時宗の教祖として知られているが、子規のいう「豪傑」のゆえんは、旅の思索者であった一遍こそが、もっとも日本人固有の勁(つよ)く美しい心情を深く鋭く体現した人物だったことにある。いまも日本人の暮らしの中に息づいている、茶の湯、生け花、能や歌舞伎、謡曲などの伝統芸能は室町時代に形ができたといわれているが、これらのなかにながれる芸術性をつくりあげた人々は、みんな一遍の系譜につながるのである。

 一遍は伊予の豪族だった河野水軍の名門の家に生まれている。祖父の道信(みちのぶ)は、源平の合戦のとき義経と一緒に壇ノ浦まで平家を追撃した。一門のなかには、蒙古襲来のときに武勲(ぶくん)をあげた者もいる。一遍は三十六歳のときに道後奥谷(おくたに)の館(やかた)をでて、五十一歳で没するまで日本中をあるき、出会う人々すべてに念仏往生(おうじょう)を説いた。

 一遍の教えはひときわ日本人の心情と深く結びついている。空海や最澄は中国に渡って直接祖師に教えを請(こ)い、また法然や親鸞は中国から伝来した経典を開教の根拠とした。しかし、一遍はそうではない。河野水軍の氏神は大山祇(おおやまづみ)神社であり、一遍のなかには神も仏も同じなのだという日本古来の思想があった。一遍は崇敬(すうけい)する聖徳太子ゆかりの四天王寺に参篭(さんろう)し、熊野権現(ごんげん)の神殿で神託をうけて開眼、その神託を宣教の本旨とした。同じ仏教といっても、ここが他の宗派と根本的に異なっている。すなわち一遍は、日本的な心情の原型としての念仏を説き、念仏そのものになりきった人なのである。宝厳寺の一遍上人立像は、一遍のこころをもっともよく表現した名作であった。

 皇国日本に暮らす私たちのアイデンティティのひとつに、外国にはない日本のこころがある。立像は焼失してしまったが、私たちは一遍が今日に伝える精神的な遺産まで見失ってはならない。しっかり伝承することは、わたしたち愛媛県人の誇りでもある。





『日本の息吹』平成25年10月1日号「愛媛版」より転載

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