[日本の息吹 9月号巻頭言」
「昭和天皇のご聖断と終戦」 
日本会議愛媛県本部会長
 中 山 紘 治 郎
 大東亜戦争の終結は、ポツダム宣言、原爆投下、ソ連の参戦というながれのなかで語られている。日本を降伏へとおいつめた歴史的な事実として、この認識は間違っていない。客観的な情勢はその通りなのだが、終戦の決断それ自体は昭和天皇のご聖断によってもたらされたものである。それも一度は陸軍が戦争継続を主張してやまない最高戦争指導会議において、また再度はポツダム宣言の受託をめぐってなお意見がわかれる御前会議で、天皇は断乎として終戦のご聖断をお述べになられ、戦争を終えることができたのである。終戦六十八年、今日の日本の平和と繁栄に思いをよせるとき、私たちはこのことを決して看過してはならない。

 ふりかえると、七月二十六日に発せられたポツダム宣言は、全日本軍の無条件降伏を要求したものであった。政府は二十八日の最高戦争会議でポツダム宣言を正式に議題としたが、和平派の東郷茂徳(とうごうしげのり)外相も米内光政(よないみつまさ)海軍大臣も徹底継戦の陸軍の意向を慮(おもんばか)り、受託の発言も気配もみせなかった。そこで鈴木貫太郎首相はポツダム宣言を「黙殺」したため、アメリカは日本が拒否したものと受け取り、日本全土への最後の攻勢を強めるとともに原爆の使用を決定した。この間、日本はソ連を仲介とする和平の工作になお望みをつないでいた。ところが原爆投下をみて、スターリンは日本が連合国に降伏することを恐れ、ポツダム宣言に加入すると日本に宣戦布告し、八月九日早暁、極東ソ連軍は満州国への侵攻をはじめた。

 この日、午前中から始まったポツダム宣言受託をめぐる閣議は、長崎に二発目の原爆が投下された、というニュースで中断。午後十一時五十分から御前で最高戦争指導会議が開かれた。重臣たちの意見は一致せず、鈴木首相は天皇へ初めてご聖断を仰いだ。天皇はこの時、国民を破局から救うため、速やかに戦争を終結させるように述べられた。それでもなお決められない政府は、八月十四日の御前会議で再びご聖断を仰ぐことになった。

 天皇は国体護持については信じるより他はないと諭され、「陸海軍の将兵にとって武装解除や保障占領は耐えがたいことであるのはよく分かる。国民が玉砕して国に殉じようという心持もよく分かるが、自分自身はいかになろうとも国民の生命を助けたいと思う。」と覚悟を示され、「これからは日本を平和な国として再建するのであるが、これは難しいことであり、また時間も長くかかると思うが、国民が協力一致して努力すれば必ずできると思う。自分も国民とともに努力する」と述べられた。

 この再度のご聖断が終わったのはちょうど正午のことである。翌十五日の正午、天皇が朗読された終戦の詔書がラジオ放送で、全国民へ伝えられたのは周知のとおりである。


『日本の息吹』平成25年9月1日号「愛媛版」より転載

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