「それでも日本人か」
あれにもこれにもこの言葉
日本会議愛媛県本部会長
 重 松 惠 三
 「子供のころがよく思い出されるのは、そろそろお迎えが近いと言うことだ」と、近所のお年寄りが自嘲気味に言います。私もそんな年寄りになったか、昔のことのあれこれがよく思い出されます。「悪さ」をして叱られる夢も見ます。

 子供の「悪さ」「いたずら」に当然、親は叱ります。近所のおじさん・おばさんも兄さんも姉さんも「止めなさい」と諭します。そのような時によく聞いた言葉が「お前はそれでも日本人か」でした。隣近所が一緒になって子育てをしていました。

 今、目新しいことのように「社会が子供を育てる」と言う。やれ子供手当、高校無償化など賑やかです。社会が子供を育てると言いますが、昔は町内や部落でみんながやっていたことです。薩摩の郷中から偉人傑物が輩出したのもそのような日本の地域社会にあった次の世代を育てる仕組みや情念、そして高い倫理観が為さしめた一つの例でありましょう。

 子供の「悪さ」をたしなめる時、子供に一番グッと来てこたえるのは「お前はそれでも日本人か」「日本人ならそんなことをしない」など日本人を持ち出す言葉です。ぶん殴られるより効きました。今はその言葉を耳にしませんが、日本人の同質性と恥の意識からくるものでしょう。子供心にも日本人であることを疑われ否定されることに恐れを感じました。

 子供の悪さ・いたずらは、弱いものいじめ、喧嘩、人のものをとる、嘘をつく、騙す、落書きなど、大人顔負けの意識的な悪業から、笑って済ませる無邪気なものまでいろいろですが、今話題の「いじめ」は大津の中学校の件。飛び降り自殺をするまでに追い詰める。何人もが寄ってたかって一人の同級生をいじめて死に追いやる、子供の悪さを通り越して悪辣な犯罪です。学校も担任の先生も知っていながら何の手も打たない。学校・教師の使命・職分を忘れた怠慢で済む話ではなく、何もしないことが犯罪への加担になることを肝に銘じて欲しいものです。先生は勿論親も、世の大人は子供の鏡でなければなりません。

 男の子は「弱いものいじめ」は決してやってはならないことでした。女の子、年下、老人、障害のある人、他所から来た子に暴力を振るったり悪口を言ったりしてはならないときつく教えられました。そのような行為に「それでも日本人か」のお叱りです。

 子供の悪さだけではありません、今は、あちこちでこの言葉を吐きたくなります。後期高齢者の昭和十一年生まれですら昭和三十年高校卒。小学校・中学校・高校で日教組の強い影響を教室で受けて育ちました。是非善悪の物差し、道徳の規準が先生たちから受ける教育の中で大きい歪を生みました。日本国中、老いも若きもそれに気づき、改めるところがなければなりません。身勝手なだけの親、子供たちだけの話じゃないのです。

 往時、日本に来た外国人が日本人を知り、その習俗などを見て感動した話をよく聞きます。彼らに斯く言わしめたのは、日本人の本来あるべき心根に発する所作であり習慣であろうと思うのです。神話の神々から伝えられる、神ながらの道。「赤き(明き)心」「清き心」「直き心」「正しき心」。ここに私たち日本人が誇りとする日本人の心性があります。今それを失った日本人が多い。私たち一人一人が、行住座臥の間、自らに問いかけたいものです。「それでも日本人か」と。




『日本の息吹』平成24年10月1日号「愛媛版」より転載

前号



h24.10. 2