終戦の日を思う
戦後、日本人は何をしたのか
日本会議愛媛県本部会長
 重 松 惠 三
 暑い夏の陽射しの中で大東亜戦争終結の詔書を拝聴して六十七年。九歳の私の理解を超えるものであり、大人たちの話をあれこれ聞いた八月一五日。その夕、日本は戦争を止めたことが解りました。これから日本はどうなるのだろう。幼い私にも不安が募りました。

*ポツダム宣言受諾

 日本は無条件降伏したのでしょうか。確かに軍隊の無条件降伏は求められていますが、国家としては無条件ではありません。當時の指導者たちが一番心を砕いたのが如何に「国体を護持」するかでありました。米・英・支那が発するポツダム宣言にそれが出来るとあるからこそ受け入れました。「国体」とはそも何でありましょう。天皇の存続は勿論、日本の国柄、伝統文化、国民精神、習俗などを含むものと考えられました。ところが実際に占領統治が始まると、日本は無条件降伏をしたとして、占領軍の強権をもってする強制が国家のすべての領域分野及び、九千に上る命令指示によって軍事独裁的統治が行われます。一応日本政府を通じてではありますが、これが米国の為するマッカーサーの日本支配でした
。特に占領初期の日本に対する報復と破壊は彼の性格と負の戦歴によるとも言われます。

*日本とドイツの戦後、その違い

 負け方が違いました。日本には政府があり行政機構も健在でした。軍隊も厳正な軍規を維持し、最後まで指揮命令系統は些かの揺るぎもありませんでした。日本政府による統治が十分可能な状態でした。ドイツはヒットラーが自殺し、首都ベルリンはソ連軍に蹂躙され、無政府状態。行政機構もほぼ崩壊し、領土は米、英、仏、ソ連が四分割。アイゼンハワーの人間的な性格は、占領統治にも見られますが、それぞれの占領軍による軍政です。
 更に占領に対する国民の意識に差異ありました。日本は一億総懺悔です。ドイツは悪いのはナチとヒトラーで一般国民は関係なし。国民が自ら敗戦の責めを負うのか、他に転嫁して逃げ道を作るかの違いです。何度も負けた歴史があるドイツはしたたかでした。日本は敗戦初体験。国際法違反の原爆や全土に及ぶ爆撃、それにソ連の参戦は敗戦の衝撃と共に勝者の暴虐に恐怖を感じました。「衝撃」と「恐怖」に耐えてこそ国の復興があります。
 ドイツは負けた時、何をしなければならないのかをよく知っていました。国を再建するとき大事なことは三つ。憲法、軍隊、教育です。これは人任せにはできない。自分でやる。
教育については先月述べました。教育視察団の評価は高く固有の教育体制が残りました。
 フィヒテの言葉が思い出されます。「教育は真のドイツ国民をドイツ精神によって作る」
基本法(憲法)は戦後三年を経て各州代表により制定議会を設け、翌年連邦共和国発足と同時に施行、民政移管後は、情勢に応じ改正四十余回、東西統一を経て現在に至ります。
 軍隊は朝鮮戦争を契機に、欧州防衛への組み込み、NATO加盟などの経過を辿りつつ一九五五年国防省・国防軍発足、翌年再軍備立法・基本法改正。兵役法、軍人法などが制定され、後に議会は戦術核兵器の武装も決意し、NATOの域外への派兵も実施します。
  
*六十七年を経て、尚、わが国日本に残る「占領状態」に憂い深きものがあります。

以上




『日本の息吹』平成24年9月1日号「愛媛版」より転載

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h24. 9.21