郷党の偉人を思う 「責任」その重みと覚悟
菅 源三郎船長のこと
日本会議愛媛県本部会長
 重 松 惠 三
 イタリアで豪華客船 コスタ・コンコルディアが座礁し死者二十五人以上、不明多数。日本人も四十三人いましたが無事とのこと。真っ先に船を捨て逃げ出したのはスケッティ―ノ船長です。沿岸警備隊が船に帰って指揮を執るように言いますが、聞き容れず、陸に上がったまま。船長としての責任感がなく、乗客置き去りに、世界中から批判が集中。当然です。この船長と違い、船乗りの模範と称賛される船長がわが愛媛の人にいました。
 かつて、本欄に、満州で匪賊に捕らわれ、頭に鉄砲を突き付けられながら、救援の部隊に「日本人ここにあり」と大音声を上げて、匪賊の潜むところを知らせ、米国人を含む被害者全員を救った村上久米太郎。顔面に大怪我をしましたが、一命かろうじて取り留めたことを、日本人の気概と誇りそして犠牲を顧みない勇気の例として紹介しました。

 それに加えて、今治の子供たちがよく聞いた話に「責任の取り方はかくあれ」と菊間町出身の菅源三郎 長崎丸船長のことがあります。長崎丸は、長崎―上海の運航で活躍しますが、大東亜戦争が始まると、揚子江河口でアメリカの軍事輸送船 プレジデント・ハリソン号を追跡し座礁させるなど、多彩な活動で話題になりました。昭和十七年五月十三日、長崎港外でわが海軍の機雷に触れ沈没します。死者十三人、行方不明二十六名、貨物、船を失いました。調査の結果は、海軍が機雷の状況について、商船への伝達が不十分であり、菅船長に責任はないとの結論でした。しかし事故の一週間後、自らが救助された忸怩たる思いと責任に、船会社で自決。遺言には「斯くなければ日本帝国の海員道が立ち行かぬ」と。 船と人命を失った船長の責任を六十歳の命を絶って果しました。

 菅船長は明治十六年生まれ、西条中学(西条高校)から高等商船学校(海洋大学)に進み、卒業後は海軍予備士官となり、一般の商船に乗り組みます。船員として経験を積み、内外の大きい信頼を得て、当時の人気航路往来の長崎丸船長になります。触雷事故、事故処理、そして自決。この行為は船員の鏡として、戦後船員法が改正されるに当たり、第十二条 「船長の職務及び権限」には菅船長の行為が反映されたものと言われます。
母校西条高校と郷里菊間の厳島神社には、菅船長を讃える碑が今も人々に己の職務に対する責任の厳しくしかもその崇高なあり方を伝えています。

 私たちは「命がけでやります」「責任を果たします」「一生懸命にやります」「出来なければ腹を切る」よく耳にします。特に政治家の先生方に多いように思いますが、市井の人でも軽く使われがちです。自らが言ったことに、自分の任務・職務に責任を云々する人はこの菅船長の事績を想って欲しいものです。この覚悟あれば仕事の結果も違います。

 同じ菅でも大違いの人が総理大臣として日本丸の船長でした。この菅船長は進路を誤るは、事態対処は間違いか後手。一億三千万人の乗客・国民は危機・大不安。原発爆発・船火事に処置なし。怒鳴るばかりで責任は一切取らない。「船中無策」の船長では船は沈む。

 リーダーの責任、任務に対する姿勢。郷党の偉人の偉大なるを誇らしく思います。


『日本の息吹』平成24年4月1日号「愛媛版」より転載

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