偉大なるかな明治 国興る時代と人
重松  惠三
   日露戦争を思う 
 現在の我が国がおかれた情勢を見ると、何故こんなことになったかと思うことばかりです。地震・津波は天災。然しその後の原発被害への対応は人災の集積。目に余るものがあります。政治の怠慢・無能・恣意は首相以下がなんと強弁しようとも国民が納得できるものではありません。加えて経済の停滞です。教育の荒廃です。日本の今を観るとき、終戦後の占領施策が国民の心を蝕み続けて六十六年。日本人がその本然の姿を失ってしまったことに因を手繰ることができます。其れに比べ、日本が興隆した「明治」とは何と大きい差異があるのか。我々は今、「明治」に学ばなければならないと思うことしきりです。偉大なる時代とそこに生きた人に想いを馳せ、明日の糧としたいものです。

一、明治維新 志士の心を「龍馬伝」に見る

 NHKの大河ドラマ「龍馬伝」は大評判でした。時を経ても心打つ場面があります。龍馬たち維新の志士が新しい時代に何を望んだか。それを示す三つのシーンが印象的でした。

(一)「力」には「力」。抑止の基本。「黒船、海軍を作ればいい。それで攘夷もできる」

 龍馬が勝海舟と初めて会った時、龍馬は問います。「このままで外国と戦をすれば日本はどうなる?」海舟は「負ける」。龍馬の「ではどうする」に勝は答えません。龍馬が自ら出した答えが「海軍を作る。攘夷もできる」でした。相手の力を抑えるにも対抗するにも力が要る。抑止の相互作用が解っています。「抑止力」をご存じないどこかの総理とは違う。

(二)、侵略される危機。「この国の半分は他所のもんになる」

 龍馬と岩崎弥太郎の会話です。龍馬が言います。「新しい国を作らんと、幕府ではこの国の半分は他所のもんになる」阿片戦争やアロー号事件の結果を龍馬は高杉晋作などとの交流を通じ知っていました。大国「清」が外国の武力の前にその領土を次から次へと奪われる厳しい情勢。日本の隣まで来ている。国際情勢に対する的確な認識、深刻な危機感。現在も一国の政治に必須の要件です。同じ危機が、今、同じようにあります。

(三)国家と国民。「幕府も藩も無くして何が残るか」龍馬「国が残ります」

 土佐の殿様山内容堂に龍馬が「大政奉還」を請願します。幕府も藩も無くすると聞いてびっくりした殿様と龍馬の問答です。「国民国家」を作る。藩も幕府も必要ない。現在の流行の一つに、国民を市民と言い、国家主権が軽んじられ地方分権を唱える。国家の弱体化衰退に繋がらなければいいのですが。
 松陰も龍馬も晋作も玄瑞も、みんな新しい国作りに若い命を懸け、「明治」を見ることはありませんでしたが、その思いはしっかりと次の時代に受け継がれました。

二、明治の人が見つめた「坂の上の雲」は何? 
 
(一)「普通の国」

 ここに言う「普通の国」とは、普仏戦争以後日露戦争までの間、英・仏・独・墺・露の五か国で「コンサート オブ ヨーロッパ」と称される状況が続き、それが世界に対して大きい影響力を及ぼしておりました。明治の人が目指したものの第一はこれらの国と対等の国作りであったでしょう。そのために先ずなすべきは、幕末に十一か国と結んだ不平等条約(治外法権あり・自主関税なし)の解消です。そこには白人と有色人種、東洋と西洋の相違など越えがたい障害が立ち塞がっておりました。

(二)国民国家

 国家を形成する国民の意識、就中国民の国家への帰属意識は国家としての機能発揮の前提でもありましょう。「五か条の御誓文」で開けた明治時代は、溌剌とした国民の思考や意欲・行動を振起するものがあり、それを昭和天皇が昭和二十一年元旦、敗戦に疲弊し行方を模索する国民に示された、「新日本建設に関する詔勅」の冒頭に掲げられたのも故なしとしません。君民一体の中の民主主義がそこにありました。外に学びながら議会・憲法と近代国家としての制度体制を整えました。国民の意識の形成に教育勅語や軍人勅諭も大きい役割を果たしました。教育と軍事が国家の建設維持に欠かせないことはいつの時代も変わることはありません。

(三)富国強兵・殖産興業

 新しく生まれた国が、列強の猛威、弱肉強食の帝国主義の嵐の中で自存・自衛・自栄を図るために為すべきは、自ら軍隊を強化し相応の力を持つことであり、また産業を興し経済基盤を固め且つ拡げることは、国を挙げて務むべき大事でありました。

(四)文明開化

 外国の信頼を得ること。そのためには彼らの文明文化、特有の価値観の根底にあるものを理解することです。それは単に外人教師・技術者を招き、留学生を派遣して学問や技術・社会の仕組みを導入するに留まりません。江戸時代までに蓄積した日本の高い民度や民族の誇る伝統文化を背景に日本固有のものに熟成するところがなければ相互の理解と信頼は得られません。「明治」はそれを成し遂げた時代でした。新渡戸稲造の「武士道」、内村鑑三が命を捧げるとした「二つのJ]ジャパンのJとイエス キリストのJ、などは明治の日本人が開花の波に日本人であることを失わず、むしろ日本人であることを誇りとした証左です。
 明治の日本人が坂の上に見た雲に向かって汗を流し命を懸け、その命を捨ててまで築き上げた、近代国家日本が成し遂げた偉業に日露戦争があります。

三、日露戦争の原因

(一)世界が揺れていた 十九世紀 列強の侵略にアジアの苦難

 世界史の年表を開き一九世紀を通覧すると、欧米列強のアジア太平洋・アフリカ・中近東への帝国主義による侵略・膨張の凄まじさに今更ながら驚きます。それがまた列強間に軋轢摩擦を生じ、世界はこれがために動揺止まるところがありません。日露戦争はそのような時代にあって、世界を変え、アジアの覚醒をもたらしたこと。意義は極めて大きいものがありました。

(二)その原因は次の三つに要約されると思います。

ア、日清戦争―・三国干渉―・北清事変
 ― 日清戦争の敗戦でシナは「眠れる獅子」。
  「お前のものも俺のもの」日清戦争の講和で得たもの
  掻っ攫う三国干渉。世界に日本の真価を見せた北清事変。―

 明治27(1894)〜28年(1895)の日清戦争は朝鮮に対する宗主国・「清」の過大な干渉、それ自体が日本の安全の脅威であり、具体的な軍事的威嚇もありました。日本は開戦を決意します。結果は大国「清」に勝ちました。
 その結果「清」は遼東半島、台湾、澎湖島を日本に割譲しましたが、和平の下関条約締結直後にロシア・フランス・ドイツの三国により遼東半島を「清」に返せと言う干渉が入ります。日本は臥薪嘗胆、これを受け容れます。ロシアは大連旅順を租借し大軍事基地の建設にかかります。

 北清事変は清末期の救国の策なき混乱が国家滅亡をもたらしたもので、「扶清滅洋」をスローガンとして白蓮教の一派が衆をたのむ過激な不法行動を続けます。列国の公館を襲撃し、外交官を殺害し、遂には「清」が国として八カ国の列強に宣戦を布告する事態に到ります。この事変を通じて日本は世界から高い評価を受けます。列国の公館の要員や守備兵を合わせ指揮して守り抜いた柴五郎中佐(会津の人・後に陸軍大将)の活躍、連合軍三万五000人の大半は広島師団を主体とする日本軍であり、天津・北京を瞬く間に制圧した戦ぶりの見事さもさることながら、兵士の勇敢さ、卓抜した士気、厳正な軍規は列国の陸軍の範たるべきものがありました。

イ、ロシアの南下東進・朝鮮日本へ食指

 北清事変に敗北した「清」は北京議定書により列国の駐兵を認めます。ロシアは満州に大兵力を推し進め要所に配置して、この地を支配しようとします。これによってロシアの南下東進が愈々露骨に顕著になって参ります。イワンV世がロシアを統一してから国土の拡張は毎日220キロ平米と言われる物凄さです。更に満州から朝鮮を窺い対馬まで狙います。明治の御代が始まってすぐ日本は朝鮮との間に、江華島条約を結び、朝鮮を独立国と認めますが、「清」は反対します。日清の朝鮮をめぐる対立は続きますが、「清」は宗主国として朝鮮で起きるあらゆる事態に軍事行動を含め容喙します。反日クーデター壬午の変、東学党の乱、農民戦争甲午の変と国内は乱れに乱れ、大院君が「清」に匿われたり、高宗がロシア公使館に身を隠したこともありました。政治の乱れに「清」・ロシア・日本が絡み、とても国家の態を為しません。

ウ、清・朝鮮の動揺と日本の脅威の増大

 日清戦争後、「清」はロシアと二次にわたる密約を結び、実質的に満州を彼に与え、日本に対します。ロシアは国際約束である「清」からの撤兵に応じないばかりか満州の要地に次々と要塞を築きます。対馬の対岸、馬山浦に租界を設け土地を買収して軍港の建設を計画し、又鴨緑江河口の龍岩浦には森林伐採を名目にロシア人数千人を入れ、義州には二〇〇〇人の軍隊を増強し要塞化。朝鮮半島の南北に拠点を作り、朝鮮の実質支配が進みます。目指すのは旅順大連―鎮海・対馬―ウラジウォストーク(爾後ウラジオ)の回廊です。そのようなロシアの動きの中、日清戦争後幾度となく日露交渉が行われます。日本の主張は満州は主としてロシア、朝鮮は日本の優先権を認めるというものでしたが、彼は全く応じないばかりか、引き伸ばしをはかります。

 時間は彼らの利得です。朝鮮は白村江の昔から日本の安全保障にとって決定的な意味を持っていますが、マッキンダーの地政学が言う半島が大陸国家と海洋国家間の争点になるとする説の通り、当時も今も日本の存亡に拘わる重大事であります。朝鮮は日本の「利益線」。「生命線」は満州。シベリア鉄道は明治35年(1902)には、ウラジウォへ、翌年には大連旅順へと繋がりロシアの戦略態勢を強化します。大量の軍隊が、大砲が、物資が送り込まれます。「清」と朝鮮は為すところがありません。我が国への危機は増すばかりです。明治36年(1903)にはロシアは極東総督府を旅順に開設、極東支配体制を固めます。


(三)国民感情  ロシア撃つべし

 ロシアに対しては協調路線と対決路線がありましたが、明治24年(1891)、訪日中のロシア・ニコライ皇太子に警備の巡査津田三蔵が斬りつける大津事件に見るように一般国民の対露感情はよくありません。ロシアとの具体的な交渉が伝えられるにつれ、日本に対する一片の誠意なき姿勢に明治36年(1903)半ばから、国民感情は次第に対決姿勢を強めます。東京帝大の七博士による対ロ強硬論の建議があり、「万朝報」も主戦論に転じます。

 当時の国民感情を最も端的に表すものとして国民に広く歌われた二つの歌があります。一つは東京高商(一ツ橋大学)の学生による「血潮と交えし」。その各節に「日は長白に傾きて李氏の社稷や今いかに」とロシアの朝鮮占取を危ふみ、ロシアのシナ人やユダヤ人に対する大量虐殺を怒り「スラブの兵は賊なりき 神人と共に憤る 史上の罪は消ゆべしや」「わが民族の発展は 露人を切りて生贄に 平和の神を祀るべし」などロシアの暴虐に対するアジアと我が国の憤怒の言葉が続きます。

 又第一高等学校(東京大学)第十一回寮歌祭には「アムール河の流血や」が歌われ「二十世紀の東洋は暗雲空にはびこりつ」とロシアのアジア全域での横暴に警鐘を鳴らします。なおこの曲は後に「歩兵の本領」となり、戦後は「聞け万国の労働者」メーデーの歌となり国民の口に親しまれました。当時の国民の対露感情の激しい高まりを感じます。国民の意識、感情に共通した、強い堅い高い昂まりがあってこそ国難に国を挙げて立ち向かうことができるのです。

(四)明治の日本外交 戦争に備え、整える機能

 明治の外交は、岩倉使節団の派遣以来その重点は不平等条約の解消にありました。その外交努力とともに周辺諸国からの脅威にいかに対応するかが国家として喫緊の課題となって参ります。明治は卓抜した能力と情熱を持った外交官が居ました。日清戦争の陸奥宗光、日露戦争の小村寿太郎。いずれも外交の場で国難を見事に凌ぎました。外交官として彼らがなぜ優れているのか。外交は弾の飛び交わない戦争です。優秀な頭脳だけでは適いません。国を想う至情、命を懸ける覚悟、五十年、百年先を見通す洞察力,不退転の交渉姿勢、相手の手の内を透かし腹を読む能力が必要であることはいつの時代でも変わりません。今も外交官にこのような人が欲しいものです。
 
 ア、日露交渉 ロシアはのらりくらりと時間稼ぎ、誠意全く無し

 日露の話し合いは既に述べたように、特に北清事変後のロシアの満州支配、朝鮮にも又大きい権益を扶植するに及んで小村―ウエーバー覚書、西―ローゼン協定など何度も交渉はします。日本からは5回交渉、八度文書を送りますが二か月返答のないこともありました。明治36年(1903)夏、「交渉はあと半年」と決意します。時間はロシアの利得です。兵力を集め、物資を集積し、要塞を建設、更に強化できるからです。

 10月3日、ロシアは朝鮮におけるロシアの権益を日本に強要する主張を繰り返し、ここに日露の交渉は暗礁に乗り上げ進展は全く期待できない事態になりました。明治37年(1904)1月12日、御前会議。13日、小村外相がローゼン公使に最終提案。2月6日、日露交渉打ち切りを通告。8日、国交断絶。10日、宣戦布告となります。

 イ、日英同盟  苦しい時に頼りになるものと手を結べ 

 明治35年(1902)1月30日、三か月の話合いの後、英国は「光栄ある孤立」政策を止め、日英同盟を結びます。日本外交の大成功。日露戦争の勝因の主要な一つに挙げられます。当時の英国は七つの海を支配する世界一の大国であり、日本は近代国家の歩み僅かに35年、極東の小国です。世界は驚きました。然し英国は日本と結ぶ理由が幾つかあります。

 ロシアのアジア進出が、英国のアジア権益に対する現実的な脅威となったこと。アジアではロシア、フランスの海軍の増強が続き、元来第二位第三位が束になっても、それに勝つ海軍力を持つのが英国の基本方針ですが、その維持が危うくなったこと。ロシアを抑え、海軍力を補完しあう相手としては日本しかありません。日清戦争に勝ち,北清事変ではその軍隊の精強、軍規軍律の厳正、国家としての信頼性に確信が持てるアジアで唯一の国でした。

 日本の方にも同盟の利点がいろいろと考えられました。大英帝国の同盟国となることで世界の多くの国が友軍とならないまでも好意的中立に。英国の持つ情報・金融の影響力の利用。最小限敗れても英国の仲介で本土は保持できると言う期待。この同盟はその後二度改正され、第一次は一国の戦争に中立義務、他国の参戦防止でしたが、二次は相互に参戦、三次はアメリカを交戦相手国から外します。大正10年(1921)ワシントン軍縮会議でアメリカの強い要請により廃止となります。20年間ほどの同盟でした。条約は国際情勢の動き次第で存廃が変わることを教えています。

 ウ、ポーツマス講和  ロシアはまだやる気、日本は限界

 日露戦争が終わった後、アメリカの仲介により、ポーツマスで講和の交渉が行われます。明治38年(1905)8月に始まり9月5日調印。この会議で一番難しい問題は、ロシアは奉天で敗れ、日本海海戦で全滅しても、戦争継続中でありハルピンでの、最終決戦に勝って満州を回復する意図がある中での交渉でした。日本国民は勝った勝ったと沸いていましたが、実態はそんな容易なものではありません。

 日本の絶対要件即ち、韓国での日本の優先権、ロシアの満州撤兵、旅順・大連租借、南満州の鉄道権益、はすべて獲得しました。小兵小村全権が180センチ以上の巨漢ウイッテと堂々と渡り合ってのことでした。明治外交の偉大な成果です。然し領土の割譲は樺太南半分だけで、賠償金20億円、などは容れられず、国民の不満は日比谷の焼き打ち事件となります。

四、日露戦争が世界を変えた

 維新の結論・大きい成果が日露戦争でした。日本国民が一つに纏まりました。全国民が必死になりました。日本は知恵も力もだし尽くして大国ロシアと戦いました。日露の国力差を見れば、日本の1に対して領土60倍(40万キロ平米・2500万キロ平米)、人口3倍(4600万・1億2000万)、動員兵力2倍(100万・200万)、火砲4倍(636・2260)海軍力3倍(25万トン・80万トン)圧倒的な優勢はロシアにあり、世界は当初ロシアの勝利は確実と見ていました。

 然し日本軍の陸・海における善戦。勝利の積み重ねに世界の日本に対する見方が徐々に変わって参ります。それはやがて日本に対する好意となり、支援となります。西欧諸国に抑圧され、あるいは植民地となっている国民はロシアに向かって立ち上がった日本によって独立の勇気を与えられます。世界はこれを契機に変わります。

(一) 戦争の全般構想

 陸戦では、日本軍は遼陽付近でロシア軍と決戦。撃破してハルピン会戦に備える。旅順は封じ込める。ロシア軍は日本軍を漸減しつつ遅滞。日本の作戦線が伸びきったハルピン付近で決戦。日本軍を撃滅する。と言う構想です。

 海戦では日本海軍は黄海・朝鮮周辺海域の制海権の確保を最重要任務とし、バルチック艦隊来航に先立ち旅順・ウラジオ艦隊を各個に撃破し、全力でバルチック艦隊を迎撃撃滅するにありました。ロシア海軍は旅順艦隊を温存(フリート・イン・ビーング)。バルチック艦隊ウラジオ艦隊を合わせ圧倒的優勢をもって日本艦隊を撃滅し、満州の日本軍を孤立させる。

 日露両軍はこのような全般構想のもとに戦端を開きますが、日本は日本軍に先立ってロシア軍が満州から朝鮮に侵攻することを危惧していました。
 実際の作戦・戦闘は図の通りです。陸海軍ともに、世界戦史に範と讃えられる幾つもの戦例を残しました。

 
図  日露戦争の戦場

    ※「最新日本史」203ページ「日露戦争要図」



(二)陸戦

 2月9日、瓜生少将の第四艦隊の支援下に第一軍(黒木 為髑蜿ォ)の先遣隊・木越少将指揮する3000人が仁川に上陸、所在の敵を駆逐しつつ朝鮮半島を北進。

 ア、 鴨緑江・南山  第一戦の勝利

 第一軍は4月21日までに、鴨緑江左岸に三個師団を展開。この鴨緑江渡河作戦が、日露陸軍の緒戦。4月30日から、日本軍は優勢な砲兵をもって準備射撃。5月1日渡河。その日のうちに、ロシア軍を撃退。11日には、要衝、鳳凰城を占領。緒戦に勝つことはそれ以降の戦争の遂行に大きい影響を与えます。ドイツの新聞は「日本軍は戦略においてもその他あらゆる点でロシア軍よりはるかに優れている」と伝え、ロンドンでは日本の国債が一日で予定額完売です。

 第2軍(奥 保鞏大将)の三個師団は5月5日から直接遼東半島に上陸。半島の最狭部金州・南山を攻め、苦戦の末、金州―大連の線を確保。敵将ステッセルは旅順に逃げる。ここで乃木大将の長男勝典中尉戦死。乃木大将の「山川草木転荒涼」の名吟が生まれます。この間旅順に対する第三軍(乃木希典大将)と第一軍と第二軍の中間を北進する第四軍(野津道貫大将)が編成されます。大本営は6月20日、満州軍総司令部を設け、総司令官に大山巌元帥、総参謀長に児玉源太郎大将を配します。
第三軍は旅順攻略に、第四軍は遼陽へ向かいます。
 
 イ、 旅順要塞攻撃  日露戦争の勝因第一は 旅順陥落

 「坂の上の雲」で司馬遼太郎は乃木大将をバカな指揮官として、大きい損害を彼の旅順攻撃の拙劣の所為にします。海軍は2月24日から三次に及ぶ旅順口閉塞作戦を行いますが、湾内にある旅順艦隊は周辺の砲台に守られて出てこない。敵艦隊撃滅の機会がない。黄海の制海権も万全とは言えない。海軍は陸軍に陸上からの旅順要塞攻撃を要求します。

 5月29日編成の、三個師団からなる乃木第三軍は6月6日南山に司令部を進め、攻城砲兵の陣地占領など旅順攻撃準備に入ります。バルチック艦隊のアジア東航の報に大本営は攻撃を急がせます。第一次攻撃は8月19日開始。旅順要塞はロシアが8年の時間と1万5000ルーブル、セメント20万樽をかけて作り上げ、外濠、胸壁を備え、2米のセメントで固めた掩蓋を持った、30キロ米に及ぶ近代要塞です。三次の攻撃は、6万人の戦死傷者を出しながら翌年の元旦まで続きます。

 旅順要塞の山々は将に爾霊山(203高地)、日本兵士の魂のこもる処です。乃木大将はこの戦で次男保典少尉を失います。乃木大将は終始、北東正面の強固な核心陣地を攻撃し、旧市街に突入して、戦いの決着をつけようとします。善通寺師団はその主力でした。来島海峡・小島の28サンチ砲もこの戦いに加わります。然し11月26日からの第三次攻撃では、白襷隊3000人の突撃に始まりましたが、児玉総参謀長の意見を容れ、旭川師団を投入して203高地を攻撃し、12月6日に占領。ここを観測点として旅順港の敵艦を砲撃。その大分は損傷大きくあるいは着底し、水兵は陸兵となり艦隊は既に無力化していました。

 守将ステッセルなお戦います。第三軍が攻撃を続ける北東正面の堅陣、東鶏冠山、二龍山、松樹山を年末までに陥しますが、年が明けて元旦、旅順要塞の最重要中核陣地・望台に金沢師団・善通寺師団が突入奪取します。望台占領の1時間後、降伏の軍使が水師営の第三軍司令部に来ます。ロシアは旅順に1万人の兵士、二か月分の糧食弾薬を残して降伏。戦後ステッセルが死刑を宣せられるのはこのためです。

 何故旅順攻略が日露戦の勝因の筆頭にあげられるのか?一つはバルチック艦隊来航前に旅順を陥落し、連合艦隊に海軍の決戦準備のための時間与えたこと。二つは在満日本軍の五分の一に当たる5万人の第三軍が奉天会戦に参加し戦勝に決定的な役割を果たしたこと。更に加えるならばこの年の3月の国債は約3億円・国家予算を上回る額となり利率は下がり、償還期限も3倍になり、戦費の調達も進みました。戦勝がもたらす効用です。降伏の会見は「水師営」の歌として今に伝わります。

 ウ、遼陽会戦  寡兵よく大敵を破る
   燦たる戦例 師団夜襲 渡河迂回

 旅順の苦戦第一回の総攻撃の直後、8月25日、遼陽会戦が始まります。ロシア軍22万5千、対する日本軍13万5千、兵力の足らざるを先制と機動・集中によって勝ちを求める方策です。

 8月25日、仙台師団は遼陽陣地東部の弓張嶺に師団全力で夜襲。夜間攻撃は連隊・大隊以下の部隊で行うのが通常ですが、師団約2万人が主力を挙げての決行は世界の戦史にも例を見ません。精到な訓練と周密な計画統制、指揮の巧緻の賜物です。東北師団らしい快挙でした。この突破口から第一軍はロシア軍の左翼に襲いかかります。この為ロシア軍司令官クロパトキンは戦線を縮小して直接遼陽の主陣地に拠ります。その中核陣地首山堡の攻撃で橘大隊長は身に七弾を受けながら突撃の先頭に立ち吶喊。軍神と讃えられる壮烈な戦死を遂げます。

 もう一つの戦例は8月31日第一軍主力の太子河の渡河迂回。正面に薄く配兵し、あたかも主力がそこに居るかの如く見せかけ、遠く迂回し川を渡り敵の側面から背後に出る。クロパトキンは堪らず正面の部隊を転用。迂回部隊を攻撃。手薄になった正面を第二・第四軍が攻め上がる。9月3日ロシア軍は一斉退却。日本軍は4日、遼陽を占領。然し目的とした敵の捕捉撃滅はならず、ロシア軍は20万の大兵力を擁し、日本軍の追撃無きを知って、沙河東西の線に留まります。ドイツ観戦武官ホフマン大尉は第一次大戦で参謀としてタンネンべルグの大殲滅戦を成功させますが、戦史に輝くこの作戦は第一軍の太子河渡河に倣って計画を立てたと言っています。

 エ、 沙河の対陣  冬将軍来る

 遼陽会戦後、ロシアは極東ロシア軍を改編。二個軍に分かち、総司令官クロパトキンを第一軍司令官に、新たにグリッペンベルグ大将を派して第二軍司令官とします。

 クロパトキンは日本軍の戦力枯渇を読んで日本軍右翼・本鶏湖方向から攻撃、遼陽付近で日本の連絡線を遮断し、退却将軍の汚名返上を図ります。これに対し劣勢日本軍はロシア軍の左翼・東清鉄道沿いに第二、第四軍が攻勢に出ます。ロシア軍の攻撃は10月8日.日本軍は10日攻撃開始し、ロシアの攻撃を押し戻す。17日、戦線膠着。50キロ米の対陣。冬営に入る。第一次大戦の塹壕戦の先例となります。この対陣中ロシア軍は増援を得て更に一個軍を編成します。

*黒溝台

 グリッぺンベルグは軍司令官に就任して功を急ぐ。日本軍の左翼を衝き兵站中枢・営口を覆滅。満州軍の孤立、殲滅を企図します。その攻撃を真っ向から受けたのが騎兵第一旅団を基幹とする秋山支隊。40キロ米に及ぶ日本軍の左翼を四つの拠点で守る。支隊は騎兵ながら機関銃の火力を主体に陣地編成。予てから秋山支隊長は、敵に厳冬の大攻勢ありとの情報を挙げていたが、満州軍総司令部は採り上げません。

 1月23日、ロシア第二軍攻撃開始。李大人屯、韓国台、沈旦堡、黒溝台、に三個軍団以上で猛攻。更にその西方からミシチェンコのコサック騎兵が巻き上げる。総司令部は急遽、弘前師団(師団長立見尚文中将)を救援に向けるが、やむなく黒溝台を放棄。日本軍崩壊の危機。更に広島、仙台、名古屋の師団を投入。苦戦が続く。臨時立見軍として指揮の統一を図り、攻勢に転移。日本軍の正面はこれら兵力の抽出により戦力底をつく。 しかしロシアにとってはこの絶好機に正面のクロパトキン・ロシア第一軍は動かず。

 28日、日本軍は敵の占領を許した黒溝台を回復。ここに至って敵は攻撃を止め後退。日本軍は危機を脱す。青森では愛媛県人に親しみを感じると言う人がいます。弘前師団と秋山支隊が日本の危機を救ったと。弘前では長く黒溝台の日を祝っていました。

 オ、 奉天

 黒溝台の攻防後、日露双方ともに次の会戦を準備。場所は奉天。ロシア32万人、火砲1400門。日本25万人、火砲1000門。先手を打つのは日本。新たに鴨緑江軍(川村景明大将)を編成。奉天東方山地から撫順をうかがわせるとともに、旅順から駆け付けた乃木第三軍を80キロ米に及ぶロシア軍陣地を西方から巻くようにその側背を攻撃。秋山、田村の騎兵主体の支隊は更に西方遼河から奉天の後方に進出。ロシア軍は鴨緑江軍に引かれるように、奉天正面から兵力転用。乃木第三軍にも主陣地から兵力を抽出して対応。第一軍も奉天東方に進出し、東西から奉天を包囲する態勢。3月9日は大砂塵。日本軍の攻撃は続く。砂塵に紛れて敵は逃げる。3月10日午後3時奉天占領。敵の多くは脱出するが、日本軍には弾薬不足と過酷な長期の連戦に敵を追撃し撃滅する余力はなかった。大山総司令官は奉天会戦の終了を宣言。この日が陸軍記念日となります。ロシア軍は更に大量の増援を得てハルピン決戦を準備します。

(三)海戦

 ロシア太平洋艦隊は戦艦7隻、巡洋艦10隻いずれも最新鋭艦、ロシア最強の艦隊です。対する日本は日清戦争後から六六艦隊(戦艦6、装甲巡洋艦6)の整備を進め、海軍力を従前の4倍として戦争に臨みました。

 ア、海の緒戦  旅順・仁川

 明治37年(1904)2月9日、日が変わると同時に駆逐艦10隻により湾口付近の旅順艦隊主力に20発の魚雷攻撃を実施。これにより戦艦ツェザレウイッチ、レトウィザン、巡洋艦パラルーダが大破。他の4隻にも損害。正午、連合艦隊は旅順艦隊を砲撃。彼我砲撃を交わしたが、周辺のロシア砲台からの反撃もあり見るべき成果はありません。東郷司令官が狙った、緒戦一撃により旅順艦隊に大打撃を与え、黄海の制海を確保することは万全とは言い難い状況となりました。

*仁川
 丁度そのころ仁川では陸軍第一軍の上陸援護に任じていた第四艦隊(瓜生少将)は港内のロシア艦ワリヤーグ、コレーツを港外に出し、自沈に追い込みます。

 イ、 旅順口閉塞作戦

 旅順艦隊の無力化は、黄海・朝鮮周辺海域の制海権の確保のため連合艦隊の当面の最重要任務でしたが、旅順口を取り巻く高地の砲台に守られた敵艦隊を撃滅することは困難を極め、船を沈め港口を閉塞し、港内に封鎖する作戦を採用します。サンチャゴ閉塞の例があるが、旅順口は幅273米、主力艦の航行可能は幅91米に過ぎません。

 開戦後16日、2月24日第一回閉塞作戦を5隻77人で実施。成果上がらず、第二回を3月27日実施。この時広瀬中佐が戦死。更に5月3日第三回、損害多く完全な閉塞とはなりません。この頃第二軍は旅順と目と鼻の先、塩大澳に上陸中であり、旅順艦隊の攻撃があれば第二軍は致命的な損害を被ったでありましよう。開戦後暫くして、ロシア海軍は消極的な指揮官スタルクを、名将との評判、海軍第一の提督マカロフに替え、艦隊の士気は上がります。早速4月14日マカロフ出撃。旗艦ペトロパブロフスクが蝕雷沈没。マカロフ戦死。ロシアは有能の指揮官を失います。

 ウ、黄海海戦  蔚山沖会戦

 当初は艦隊温存主義のアレクセーエフ極東総督(海軍大将)は旅順脱出後は積極論に転じ、マカロフの後任司令官・ウィトゲフトにウラジオに回航を命ずる。受けて6月23日、旅順艦隊出航、連合艦隊これに向かう。ウィトゲフトは逃げて旅順に戻る。8月に入り、皇帝からもウラジオ回航命令。10日出航。連合艦隊は追跡。夕17時過ぎ追いつき砲戦開始。三笠の一弾が旗艦ツェザレウィッチの司令塔を直撃。司令官ウィトゲフト以下参謀等多数戦死。艦隊は四散。18隻中10隻は旅順に逃げる。他は外国に逃れ、戦力外。旅順艦隊司令官の相次ぐ戦死に兵士の意気は萎えます。
*蔚山沖海戦

 黄海海戦はもう一つの好機を日本にもたらします。8月14日、ウラジオ回航の旅順艦隊を迎えるため、蔚山沖に進出したウラジオ艦隊を第二艦隊(上村彦之丞中将)が捕捉し、3隻中リュウリック1隻を撃沈、他は回復不能の大破。ウラジオ艦隊は開戦後、日本周辺で商船、軍の運送船などを積極、執拗に攻撃。日本船の損害は多く、上村中将に国民の非難が上がっておりましたが、やっとウラジオ艦隊撃滅です。

オ、 日本海海戦

 ロシアは頼みとする海戦の切り札、バルチック艦隊を第二太平洋艦隊として東航させますが、出航が遅れに遅れて、漸く10月15日、リバウ港を出る。司令官ロジェストウインスキー中将。艦隊総数47隻、1万2千人、3万3千キロの波涛。防寒防暑衣を備え、石炭所要1万7千屯。喜望峰を回り、ベトナムカムラン湾でネボガドフ指揮する第三太平洋艦隊と合流。日露戦争全般に亘って日英同盟によるイギリスの協力は日本を援けました。ロシア艦隊の航行については、情報の提供、港湾の使用制約、効率の良いカージス炭の供給拒否など、おおよそ合法的に為し得る邪魔妨害を総てやりました。イギリスはチリの戦艦2隻をロシアに渡らないように買い取る。イタリヤで建造中の重巡洋艦2隻もイギリスの仲介により日本が取得。日進、春日となって日露の海戦に参加。

 ロシア艦隊は5月14日カムラン湾から北上。津軽、宗谷の海峡を抜けてウラジオに向かう可能行動もありましたが、東郷司令長官は対馬に来ると確信。変わることはありません。
 5月27日、2時45分、警戒中の信濃丸が敵の灯火を発見。4時45分「敵艦見ゆ」を打電。鎮海湾にあった連合艦隊旗艦三笠は5時5分受信。5時15分「敵艦見ゆとの警報に接し 連合艦隊は直ちに出動、これを撃滅せむとす。本日天気晴朗なれども波高し」。 天気云々を加えたのは秋山真之参謀。作戦文が文學になったと言われます。これはまた我が得意とする砲戦には都合がよいが、小さい駆逐艦や水雷艇による魚雷戦は難しいと天候の作戦に及ぼす状況を伝えています。

 三笠は6時34分出撃。
第一艦隊(連合艦隊司令長官東郷平八郎 中将)―(第一、第三戦隊)、第二艦隊(上村彦之丞中将)―(第二、第四戦隊)、
第三艦隊(片岡七郎中将)―(第五、第六戦隊)を合わせ対馬北東方へと向かう。

 13時39分、三笠はバルチック艦隊を確認。同55分三笠にZ旗が揚がる。「皇国の興廃この一戦にあり  各員一層奮励努力せよ」日本海海戦の開始です。14時2分、彼我8千5百米に迫る。14時5分東郷司令長官の右手が高く上がり左に半円を描く。「取り舵いっぱい」左への大回頭。敵の頭を押さえ先頭艦に火力を集中するT字戦法が始まる。敵将は連合艦隊の定点回頭を勝機として、同8分旗艦スワロフの主砲発射、目標三笠。同10分、彼我6千4百米、三笠の30・5サンチ主砲初弾発射。全艦砲撃をスワロフに集中。同15分スワロフ司令塔に直撃弾。司令官ロジェストウインスキー重傷。村上水軍の教え「水戦のはじめわが全力を挙げて先鋒を撃ち、やにわに二,三隻撃ち取るべし」同20分には、スワロフ、オスラビア、アレキサンドルV世、ロシア主力艦、火焔噴く。彼我3千米で榴弾を徹甲弾に変え大破、撃沈を期す。戦端が開かれて30分敵主力艦の殆どが火災。戦闘隊形は崩壊。ロシアは逃げる日本が追う。この時点で勝敗は決まったと秋山真之参謀が後で述懐しています。

 この日スワロフ以下7隻を撃沈、17時10分攻撃中止。駆逐艦と水雷艇による夜戦が続く。翌28日、鬱陵島東方にネボガドフ座乗のニコライT世以下5隻がウラジオに向かうが、わが艦隊に包囲され降伏の白旗。日本海海戦の終わりです。
 バルチック艦隊38隻中、撃沈16、自沈5、捕獲6、計27隻。中立国へは6隻。ウラジオへはわずかに2隻。世界海戦史上例を見ない日本の完勝。ネルソンのトラファルガーを超えるパーフエクトな勝利。これまた明治の孜孜たる海軍力整備に加え訓練の精倒、兵士の士気、下瀬火薬や伊集院信管・通信など科学技術の優越がもたらした明治の成果です。
      
(四)戦場外の戦争

 戦争は戦場だけで行はれるものではありません。
世界の世論にわが戦争目的の正義を訴え、周知して、多くの国を我に與するよう働きかけることは極めて重要なことです。世界の世論を得ることは国家が戦争を開始、遂行、終結・講和、或いは戦争を避けるためにも大きい力となります。このためイギリスには末松謙澄を派し、アメリカにはルーズベルト大統領の友人・金子堅太郎を遣り、ラジオを通じ、大学などでの講演により日本の立場、事情を熱情をもって伝えました。日本軍の勝利とも関連し、それまでは黄禍論の激しいヨーロッパでも支持はロシアから日本に傾きました。

 日本は国家の歳入、歳出ともにロシアの約十分の一。戦費を国債で贖います。日銀副総裁・高橋是清はこのためイギリス・アメリカに渡り国債の売り上げに努めます。戦費は当初4億円ほどと予定しておったのが実際には17億円以上になりますから大変です。これも緒戦からの戦勝が売れ行きを伸ばし、条件の緩和を生みます。日本の国債についてはユダヤ人が好意的でした。ユダヤ人がロシアから虐待を受けていたこともありますが、ヤコブ・シフがロンドンでニューウヨークで力を貸してくれました。シフはのちに勳二等旭日重光章を受けます。

 敵の後ろでの工作も欠かせません。それで顕著な成果を上げたのが明石元二郎大佐です。駐ロシア大使館の武官でしたが、開戦後は北欧の反ロシア勢力と通じロシア国内の反体制派に援助を与えその活動を力づけます。使った資金は百万円、今にすれば2千億円にはなりましょう。レーニンにも会ったようです。奉天会戦に先立ち明治38年(1905)1月22日、「血の日曜日」はロシア国内に大きい動揺をもたらし、戦争の継続を疑問とする意見が強くなりました。機密日露戦史には「戦勝の一因は明石大佐に非ざるか」と。
 これらを大東亜戦争と比べると、「勝つために何をしなければならないのか」明治の先賢に比し欠けるところがあったことを痛感します。

五、結果と影響

 結果は開戦に際し、児玉源太郎当時の参謀次長が言ったように、四分六分を五分五分にして、何とかを六分にもっていったという処でしょう。能く見通していました。大山巌満州軍総司令官は奉天会戦後、「戦力の回復まで妄りに兵を動かさず。爾後の戦略は政策と一致するを要す」と言い、山形有朋も「敵は本国に強大なる兵力を有す。座して守勢をとるも進んで攻勢をとるも容易ならざるものあり」。国のリーダーは皆己を知りその限界を弁えていました。

(一) アジアの覚醒  シナが代表するアジアのイメージを払拭
             日本が立つアジア

 日露戦争がもたらしたものは極めて大きく、世界を変えたと言うも過言ではありません。中でもアジアの覚醒はその最も顕著なものです。我々と同じアジアの有色人、日本人がやれるなら我々もやれる。その意識こそ19世紀以来アジアの人々が白人に対して持ちえなかった願望でした。それが有色人種の自信に変わりました。人種差別撤廃への動きも出てきます。奴隷制が残るロシアが負けた。圧政からの解放に希望が沸きます。シナで孫文、ベトナムでファン・ボイ・チャウ、インドではネール。改革のリーダーが輩出します。
 アラブ回教国では日本を昇る太陽に譬え、トルコはアタチュルクの革命へと進みます。欧州でもポーランドやフィンランドの独立、ロシア革命と大きい変化の波が続きます。アメリカでも黒人の地位向上の機運が一段と高まります。人種平等を世界で一番早く提起したのは日本でした。第一次大戦後の講和会議で日本が主張しました。列国の容れることにはなりませんでした。その灯は日露戦争の勝利にありました。

(二) 日本の世界での地位向上

 世界第一の大英帝国と同盟を結び、超軍事大国ロシアを極東の戦域に限られたとは言え、打ち負かしたのですから、世界の日本を見る目が変わります。コンサート オブ ヨーロッパのような国を目指した明治の夢が実現したのです。世界の一等国と評されるに至ります。明治44年には不平等条約の改正もほとんど達成します。

(三) 軍隊の整備と経済の発展

 革命未だならないロシアの反撃も考慮せねばなりませんし、アジアの主導者としての日本はこの地域の秩序と安定に責任を持つことになります。日英同盟の義務を果たすためにも軍事力の更なる整備が必要となります。日本の拡大する世界での役割を成し遂げるためにも、それを支える国力、その基盤としての経済の発展が必須の大事でした。富国強兵に一層の拍車がかかります。海軍は戦艦8、巡洋艦8、八八艦隊を目指します。

六、勝利の原因

 小国日本がどうして大国ロシアの勝つことができたのか。奇跡ともいうべきこの快事の原因は百千も上げることが出来ましょう。そこに今に通ずるものが沢山ありますが、以下ロシアの敗因と日本の勝因に整理してそのいくつかを述べます。

(一) ロシアの敗因

 ア、 戦争目的の不明確   満州・朝鮮の確保か日本軍の撃破か。
 これがはっきしないと政府内の意志の統一はできないし、現地の軍隊の戦略・戦術にも確固たる指針を与えられない。政戦両略の一致など望むべくもありません。

 イ、 高級指揮官相互の反目と消極性
 クロパトキンは以前極東陸海軍総督でしたが、海軍大将アレクセーエフが関東州総督から極東総督になるに及んでその地位は下がります。更に沙河会戦以降は陸軍の部隊を二分してグリッペンベルグが第二軍司令官となり、クロパトキンは第一軍司令官。この両者に協調共同を期待するのは無理と言うものです。黒溝台の戦ではそれがはっきり出ました。ステッセルとスルミノフも旅順要塞に二人の指揮官がいる形で、将官はこの二派に分かれる事態になりました。海軍ではロジェストウインスキーとネボガドフの確執もありました。これらは個人の問題と言うより、国の最高統帥の問題です。
 ロシア指揮官の消極性はよく指摘されます。ほとんどの場合、兵力的にはロシアは日本を上回っていました。退却後退を繰り返すクロパトキンは退却将軍と言われ、首都でもその噂で持ちきりであったと言います。海軍はスタルクの決戦を回避する艦隊温存主義です。中には名将もいました。旅順要塞の核心・望台で戦死したゴンドラチェンコ将軍、摩天嶺で戦死しケルレル将軍。海軍ではマカロフ提督。

 ウ、 国内の革命への機運
 明治38年1月22日が「血の日曜日」であったことは先に述べました。6月には軍隊の反乱、農民の暴動も起こります。これでは国家も国民も敵に勝つ強い戦う意思は生まれません。

(二)日本の勝因

 ア、 英米の協力、世界の好意
 日英同盟、アメリカ政府の好意的姿勢。ロシアとの協調が懸念されたドイツ・フランスでも国民は漸次日本に関心を持ち、それが好意に変わってきました。ユダヤ人の反ロシア感情も日本に有利に働きました。敵を極限し多数を友軍とする。戦勝の定石です。

 イ、 国民の意識   武士道 倫理観
 国民の国家意識が国民の間にこれほど高まったことは世界的に見ても珍しいことです。教科書は今の子供たちにこの時代の反戦運動を恰も広汎な国民運動であったかのように教えますが、明治の人は国民国家の国民としての素養と自覚がありました。それは明治までに日本人が身に付けてきた知識であり徳性であり、教養です。藩校や村々の寺子屋での教育が果たした役割が大きいことは言うまでもありません。家族の中で、部落や地域社会の中での人の繋がりは濃やかな礼や秩序の概念を生みました。

 ロシアの将校が日本の兵士の殆どが作戦文書を読み理解出来ること、磁石を使うことに驚いたと言う話があります。日本人は近代軍隊を構成する人の資質をすでに持っていたのです。明治33年(1900)、アメリカで発行した新渡戸稲造の「武士道」は日本人、日本文化を世界に紹介しました。日本人は出自に拘わりなく軍服を着た途端に「侍」になると言われますが、その侍の戦が日露の戦争でした。

*乃木大将の評価。 司馬遼太郎は正しいのか。
            この疑問は消えることがありません。
 私は乃木大将でなければ旅順は陥ちなかったと思います。将帥としての信望、二人の息子を同じ戦場で失う悲運の中での統率。将兵は解っています。だからその指揮に従ったのです。その戦術についても批判があります。児玉総参謀長の二百三高地への主攻変更が旅順攻略の決め手としますが、旅順の攻防がそれから更に25日続き、乃木大将が最初から重点とした北東正面の堅陣・核心陣地を奪取して、やっと敵の降伏があったことを考えると彼の方策をあながち非難できません。損害の大きさを揚げる向きもあります。乃木大将は6万人の死傷者を出しましたが、近代要塞として名高いベルダン要塞では第一次大戦の独仏の攻防で72万人の損害を出しました。うち戦死40万人です。要塞攻撃は非常に難しい戦です。政戦略の巧妙精緻な統合を要する高等統帥を単純に断ずることは慎みたいものです。

 ウ、 指導者の確固たる国家観
 「この国をどうする」「この国はどうなる」。切羽詰まった国内外情勢の中で策を練り決断する苦悩を当時の指導者に見ます。それはこの国への熱い思いが然らしめたものですが、そこに一点の私心もない。だからこそ政府の姿勢が一貫しており、まとまっている、国民もそれ故に安んじて付いて行ける。現在の政治家諸公、もって範として欲しい。

七、今学ぶこと
 
 明治の国難にあたり国を挙げてそれを凌ぎ、国家隆盛の道を築いた明治の人の気宇と気概を持つことこそが、我々日本人がこの平成の国難に打ち勝つ唯一の道です。それは日本と日本人が本然の姿に帰ることです。明治はそれを今の日本に教えています。
                          
 
平成24・1・17記
前号



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