「想定外」
責任感と想像力がないとこうなる
日本会議愛媛県本部会長
 重 松 惠 三
危機の見積もりは危機管理の基本

 3月11日の地震・津波そして原発災害。収束・復興の目途すら立たず余震とともに大揺れの日本です。被害を受けた方々にはお見舞いの言葉もありません。また亡くなられた方々にはひたすらご冥福を祈るのみです。

 そんな中でよく聞く言葉が「この度の事態は『想定外』であった」と言うことです。危機管理の第一歩は危機の見積もりにあります。どんな危険が起こるのかその実態を予測し見極めることから危機管理が始まります。その際、経験的に、過去に学ぶことは必要ですがそれだけでは十分ではありません。そこで止まれば、手抜き、無責任の誹りを免れないでしょう。

 更に科学的に論理的に考察の輪を広げて、今までは起こらなかったが、将来起こり得る事態の全てを挙げていくことが極めて大事なことであり、当事者の責任です。この際、起こる可能性が大きいことと、可能性は低くても、その事態が起きた時の影響の大きさには十分な考慮をめぐらせる必要があります。

 災害発生以来、事態の説明についても、内閣、保安院、東京電力と三者三様、事態発生からその認識がころころ変わり、一か月たって「レベル7」の最悪事態を認める始末。情報はバラバラ、その評価も区々、対応にも一つの強い意志の下に総合的な施策が展開されているとはとても思えません。「想定外」であったからでしょう。
 災害に備え、過去における最大の事態を基準とすることが当たり前のことのように言われますが、それ以上のものを想定しなかった理由が解りません。国会の論議でもよく聞きますが「想定外でした」と。これは理由にも、言い訳にもなりません。予知予見能力・想像力欠如の告白であり敗北宣言以外の何ものでもありません。

 阪神淡路大震災の当時、神戸市の防災計画には過去の経験に鑑み、震度五までしか想定していなかったと言われますが、実際にはそれ以上の震度七の大地震が起きたのです。その時どうするか、考えていなければ備えのしようもありません。

 事態の予測は悪魔の知恵で、と言います。人の思考を超えたひどいことが世の中には起こります。古いTVの番組にありました。何かが起る度に「アッと驚く為五郎」です。これでは実効のある危機管理とはなりません。あらゆる事態を十分に考えたとしても其のすべてに万全の対応を予め準備できない場合もありましょう。それでも被害・損害を為し得る限り少なくする小さくする算段をすれば、いろいろな手立ても出てくる筈です。

 巨大地震はしばしば起こります。マグニチュード9以上の地震は昭和20年以降の65年間に世界では6回起きています。十年に一度の割合です。まして日本は火山が多く、地震国、複雑にプレートが入り組んだ上にあります。危険な放射能を扱っているならば当然配意すべきことでありました。

 神はしばしば試練の痛棒をもって、人智の及ばざるを教え、また身勝手な人間の傲慢と怠慢を懲らしめるのです。
 国家と国民を守らなければならない危機は天変地異、戦争など事態は様々です。そこに「想定外」許されません。危機管理の基本を改めて深く心に刻みました。



『日本の息吹』平成23年6月1日号「愛媛版」より転載

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