シナの船が跳梁する日本近海。
「むごい」話がありました 
日本会議愛媛県本部会長
 重 松 惠 三
* 「むごい」の語源は元寇

 「むごい」と云う言葉。祖母が小さな子供の私に教えてくれました。元や高麗が日本に攻め込んだことを元寇と言うが、その時蒙古や朝鮮の兵隊が日本人にひどいことをした。目をくり抜いたり、鼻や耳を削いだり、男は皆殺し。女は両手に穴を開けられ船べりに吊るされた。この時の「モウコ (コクリコ )コウライ」から「むごい」と言う言葉が出たとのことです。そしてこの伊予からも河野通有が船を操る男どもを引連れて、九州へ行き、敵の船に乗り込んでやっつけたことも話してくれました。ひどいことをする奴ばらに憤りを感じると同時に悪い奴らを追っ払った郷土の遠き先人の勇気と行動に血の沸き立つ思いがしました。

 彼らの暴虐は対馬や壱岐で酸鼻を極めましたが、それに日本国中が怒り慄きました。その先頭に立ったのが時の執権北条時宗です。十八歳で国政を担いました。天皇さま、お宮もお寺も、国と国民の安泰、敵の調伏撃退を祈りました。武士はもとより、国民皆が奮い立ちました。時宗は弘安の役の後三十一歳で亡くなります。文永・弘安の役に国のためにその命を尽くしきったのです。時宗は、敵味方の戦没兵士の供養のために鎌倉に円覚寺を建立しました。この様なことがあの国にありますか。南京虐殺に見るように、到底ありもしないことをもって,干戈を交えた相手をなじり、貶める国です。

* シナの船が跳梁するわが海、何が起こるか。備えは確かか?

 シナの船が来て騒動を起こしたことが明治十九年にもありました。長崎事件です。「定遠・鎮遠」世界最大の戦艦が許可も得ないで長崎に入ります。五百人の水兵が揚がり遊郭での女性の取り合いに端を発し大暴れ、日本の警察官の制止を聞かず、警察官を含む多数の死傷者が出ました。この二隻の巨艦は明治二十四年にも横浜に来航します。途中呉沖で艦砲射撃。やりたい放題とはこのことです。ともにアジアの近代化へ との日本の思いは、朝鮮宮廷をめぐる相克も絡み,清国シナに強い警戒心を持ちます。
戦争への備えも急ぎます。

 現在も、朝鮮の船は日本人多数を攫って行き返しません。中国シナの非道・無法・恫喝にも日本国民は憤りを高めています。尖閣列島を俺のものだと主張し、東シナ海を彼等の領域として軍艦の往来、多数漁船の操業が頻々です。さらに沖縄の島をかすめて艦隊が太平洋に進出し、沖の鳥島あたりまで出て演習を繰り返す。東シナ海だけではありません。津軽海峡を通り日本を一周したこともありました。次は朝鮮の羅津を起点に日本海を狙います。わが国はどのように対応するのか。「むごい」ことにならない方策が緊急課題です。

 1月22日、第一回の日本会議学習会を開きました。「危うし日本」と題して現在の我が国を取り巻く軍事情勢についてお話しました。次は2月24日、日本の防衛の実情と、「ならばどうするのか」について話します。
 学習会は月一回、適任の講師にお願いして教科書、領土、拉致、男女平等など幅広いテーマを取り上げたいと思います。

『日本の息吹』平成23年3月1日号「愛媛版」より転載

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