「新しい公共」とは。「活私奉公」を説いた先生
日本会議愛媛県本部会長
 重 松 惠 三
 鳩山前首相が、「新しい公共」を謳い、民主党は今も強く国民に訴えています。「新しい公共」なんとなく胡散臭い感じがします。日本人が持っている、そして以前からある日本の「公共」「公」「おおやけ」では何故いけないのか。どのように違うのか。進歩的文化人・法政大学教授松下圭一氏の唱導するところと聞きますが、要は政治にNPO やNGO或いは・市民団体と称する人々を絡ませて作り出す「おおやけ」なるものらしい。「共和制」の匂いもします。地域の行政にも、教育にも市民参画を主張する人がいます。市民の名にイデオローグを隠す。其処に、国という「公」の根源を否定あるいは対立するものとして捉える姿勢が窺えます。行政を、学校を、職場を人民管理にしようとする運動と見ればその狙いと実態が浮かんで参ります。そして極まるところは左翼独裁体制の確立でしょう。日本が人民共和国になるとき、日本は「日本」でなく、「日本人」も居なくなりましょう。占領中のわが国にマッカーサーの走狗となって「閉ざされた言語空間」作った検閲の首領、高野岩三郎NHK会長は日本共和国憲法を世に問いました。何時の世にも国家を否定し固有の文化や伝統を軽んじ、「新しい」と言う文字を冠して奇妙なる発想をする輩はいますが、政権交代後の政府にはこの傾向が顕著です。

 日の丸、君が代を国旗国歌とすることに反対した御仁はいまやわが国の総理大臣。ワールドカップ・サッカーで選手たちが胸を張って歌う君が代、日の丸を背負っての戦ぶり、日本国民はその選手たちに熱い応援を送りました。国旗国歌に反対した人たちは、国民が日本を表象するものへ示した想いに共感できるのでしょうか。国が国民を結び、地域が人の絆となり、仕事や職場が互いの関わりを創り、家族の血が情愛を深くする。様々なことがあるにしても、人が寄り合って生きる場や仕組みが「公」であろうと思います。

 今の世に、「滅私奉公」と言う言葉は個人にとっては重いものを感じます。しかし八月はどうしても日本のために自らの命を捧げた英霊に慰霊と感謝の誠を捧げなければなりません。韓非子には「私に背く、これを公と謂う」とあります。私を去ることに精神と行為の高みを感じます。「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」と教育勅語。兵隊さんが「奉公袋」持って応召入営したことなど戦争・軍隊などと結びつけるきらいがありますが、本来「奉公」にはもっと広い一般的な意味があります。高校時代の恩師、竹本千万吉先生は「奉公」と言う言葉を取り上げて、「これをなくしてはいかん。自分が属するものは何か、自分の「立場」「分」を知り、「おおやけ」の中での自分を弁え、そこに尽くすことがなければ人間は世の中を生きて往けない」と言われたことを今も思い出します。そして「活私奉公」なる新しい言葉を示して、「おおやけ」のために自分を活かすことを説きました。「活私」が究極の姿として「滅私」になることもありましょう。「おおやけ」に尽くす奉公とは自らの務めを果たすことに尽きる。そこに「新しい公共」も「古いおおやけ」もないように思います。
『日本の息吹』平成22年9月1日号「愛媛版」より転載

前号



h22.9.1