「米百俵」の話、ここにも
―先人の偉大な志を偲ぶー
日本会議愛媛県本部          
会長 重 松 惠 三
 ばら撒いて人身を貶め賤しめて権力を握る。そんな政治手法が蔓延る今日、「米百俵」にも似た、郷里の先人の、困苦の中でこそ輝く高い志、爽やかな心根を偲びたいと思います。

 燧灘に、にょっきりと突き出た煙突が立つ小島があります。別子で掘り出された銅の精錬所、四阪島です。煤煙による公害を少なくしようと、当時の一年分の総売り上げに相当する経費をつぎ込んで、新居浜の海岸から精錬所を瀬戸内の離島に移し、明治三八年操業を始めました。

 ところが、煤煙に含まれる亜硫酸ガスによって稲作をはじめとする農作物の被害、山林の損害は今治・越智郡・周桑郡に於いて甚大で、農作で生活も立ち行かない状況となり、住友との間で補償の問題が持ち上がりました。大正十四年まで支払われた補償金、寄贈金は三百五十五万円(米価換算・現在なら二百九十億円ほど)に達し、被害地ではその使途が大きい関心事となり、個々の農家にとっても煙害による不作、荒廃を補うものとして毎年の配分が期待されるところでした。

 しかし、今治市・越智郡三十五町村は組合を結成し、多くの金額を各人に配分することなく地域の将来に資する教育事業に充てるに決し、県知事はこれに賛同、組合長 川又金太郎はじめ地域の有力者挙って農家を説得し、困窮に喘ぐ農家またこれに応え、ここに大正十四年十一月「住友四阪島煙害補償に伴う公益事業資金特別寄付行為に関する組合立越智中学校設立許可」を得、翌十五年、越智中学校が創立されました。昭和十九年県立に移管、現在の今治南校です。同じ公害とその補償があった、足尾、小坂、日立、直島、佐賀関などは、直接農民の救済に当てたため、このような話はありません。文部省に提出した文書によれば、学校基金は七十四万円。今の金額では六十億円。米百俵、こちらは五万五千俵。歯を食いしばって、自らの労苦の汗を公に献じ、地域の教育に捧げた壮挙でした。

 初代校長には札幌農学校、新渡戸稲造博士門下の俊秀、村越銃之輔が就任。一期生は応募者三百十一名から百一名が合格。今治中学、今治高女などと並んでこの地域の中等教育の一つのと核となりました。今も学校に新渡戸博士が書いた「Ohne Hast Ohne Rust」急がず、弛まず。将に生命を土に育む人間の営為の基本、「農」の精神です。

 村越校長が昭和二年、一年生に課した修身の問題があります。「生徒の本分は何ぞや」「学問する目的を問う」「仲良い競争とは何の意ぞや」。開校間もない学校の溌溂たる空気が伝わって参ります。父祖の気高き心を継ぎ次の世代に伝えたきものです。

(本稿は補償金額など元今治南高教諭武田徹太郎氏の「奇跡が生んだ南高の誕生」を参考にしました)

『日本の息吹』平成22年1月1日号「愛媛版」より転載


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