「日本人ここにあり」
日本人の気概と勇気の話

 前号でふれた「村上久米太郎」について今月号では紹介させて頂きます。

 聞かれました。「あなたは村上久米太郎を知っていますか。」私は答えました。「今治付近の子供は小さい時から、父母の話の中で、何度も聞きました。自らの生命の危機を顧みず、大声で「日本人ここにあり」と叫んでアメリカ人を含む多くの人の命を救い、日本人の気概と勇気を世界に示した人です。」

 昭和九年八月末、満州での出来事です。今治市吉海町出身でハルピン民生部に勤めていた村上久米太郎は所用でハルピン発新京(長春)行きの列車に乗っておりましたが、真夜中にテロ集団・匪賊に襲われました。「日本人を殺せ」と叫びながら、略奪、殺戮欲しいままに暴れます。日本軍が救出に出動すると、九人の人質を取って逃げます。人質の中に村上久米太郎が居ました。匪賊は人質を連れて、隠れ家を転々と移動しながら日本軍の追及をかわそうとします。日本軍は終に川の中州の隠れ家を包囲しますが、細部の位置は解りません。船から「日本人はいるか」と捜索の声。人質は頭に銃口を突きつけられ、声を出せば殺すと脅かされます。その時です。村上久米太郎が大音声「日本人ここにあり」。久米太郎は顎を撃ちぬかれましたが、人質は全員無事救出されました。

 一命を取り留めた久米太郎に世界は賞賛を惜しみません。満州国皇帝は景雲章を贈り、犠牲となるを厭わない勇気と決断を称えます。アメリカ人二人のうち一人はメトロ・ゴールドウイン・メイヤー社の社員でした。社長のアーサー・ローエルは当時の広田外務大臣に丁重な謝辞を寄せます。「斯くのごとき偉人は日本人にして始めて見られる」と。国内でも佐藤惣之助作詞、古関裕而の曲になる「義人 村上久米太郎」が人々の口に歌われます。

 日本人は一人一人が日本人たるを誇りとし、烈々たる気概を以って勇気を奮って難事に当たる、その心性こそが「日本人ここにあり」と言わしめたと思います。  日本会議の目指すところもここにある。現在の日本人に欠けたるは、此れではないか。政治家の先生方、外交官、役人の諸公、各界の指導者の方々・・・。
この拙文がお目に留まったならば聊かの参考にしていただきたいものです。

『日本の息吹』平成21年11月1日号「愛媛版」より転載

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