■ロシア人墓地・松山

 日露戦争は、わが国の存亡を賭けたほとんど勝ち目のない戦いであり、松山からも多くの兵士が出征し、激烈な戦闘の中で命を落とした。

 その松山に、わが国ではじめてロシア人捕虜が連れてこられることになった。「国の敵」「肉親の仇」である自分たちに対して、松山の人々はどのようなむごい仕打ちをするのだろう、とおびえていた捕虜たちの予想は、上陸早々はずれることになる。
港には多くの民衆が盛大に出迎え、市内まで続く列車には、彼らのために一等席が用意されていた(市長はじめ役人は三等席に乗った)。

 捕虜は収容所や病院、市内の寺などに分かれて入所したが、食事はロシア人向きにパンやスープ、肉類が用意されており、傷病兵に対しては赤十字の看護婦が献身的な介護をほどこした。ある捕虜の日記にはこのような記録がある。

 「彼女たちは、われわれ兵士にとって天使であり、慰めだ、ということである。患者の世話は肉親同様で、昼夜仕事に追われながらも、負傷兵のために労をいとわない。
嫌な顔をしたのを見たことがない(中略)これは義務感もさることながら、戦争がもたらした犠牲に対する憐憫の情からでもある」(F・クプチンスキー)

 講和後、傷病兵捕虜は帰国を前に、看護婦たちに花輪を贈って別れを惜しんだ。

 捕虜には外出も許されており、彼らは商店で買い物をしたり、自転車で海まで遠出したり、道後温泉で憩うなど、比較的自由で平和な日々を過ごすことができた。将校の中には故国から家族を呼び寄せる者、日本女性と結婚したいと申し出る捕虜も現れた。  

 彼らは、ほぼ二年にわたり松山で暮らし、その数も六千名に及ぶ(当時松山の人口は三万六千人)。そして、本来は敵味方であるはずの市民と捕虜の間に、そのような長い期間何らの不祥事も起こっていないという事実に、私たちは驚かざるをえない。
むろん明治のわが国が国際法の忠実な遵法者たろうとしたことは有名であるし、捕虜に支給されていた手当金が松山の経済を大いに潤したことも理由に挙げられるであろう。

 しかし、古くからお遍路をもてなす伝統と穏やかな地域性をもつ伊予人の温かさ、そして戦いが終わればもはやうらみはなく、敗者を勇士として遇するべきだ、という武士道の誇りが、当時のわが国にはしっかりと息づいていた。このため、先に帰国した捕虜からこの地の話を聞いたロシア兵は、投降する際に「マツヤマ!」と口々に叫びながら両手を挙げたといわれる。

 捕虜の中にワシリー・ボイスマンという海軍大佐がいた。彼は旗艦・三笠との交戦で重傷を負うが、本国送還を希望せず、「部下とともにありたい」と、捕虜になる道を選んだのである。病状が思わしくなかったため、何度か帰国を勧められるも、「部下を残してなぜ自分だけが帰れようか」と断り続けた。大佐は1905年9月、部下の身を案じつつ51年の生涯を閉じた。その武人らしい責任感と潔さは人々の胸を打ち、会葬者は数百メートルの列をなしたほどであった。

 彼のように帰国を果たせず松山で亡くなった捕虜は98名を数える。松山の人々はこれを悼み、終戦の翌年から墓地の整備に取りかかり、昭和35年に移転・改修され、今日に至っている。地元の婦人会や老人会、中学校の生徒会の奉仕活動により、墓地の清掃は今日までとぎれることなく続けられている。これにこたえ、ロシア側からも大使館員や親善音楽団などの訪問・交流が行われてきた。

 ロシアから寄贈されたボイスマン大佐の胸像は、今もなお坂の上にある墓地の一角に立ち、松山とロシアの人々の絆を見守り続けている。



■所在地 松山市御幸1丁目531番地2 松山大御幸町キャンパス前









参考: 松山市 「坂の上の雲」秋山兄弟と「明治の精神」
     ロシア兵墓地 松山市
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H30.02.09