■興居島〜伊号潜水艦浮上せず

      
 伊号33潜は昭和17年(1942年)神戸三菱造船所で完成した巡潜乙型である。全長108.7メートル、最大幅9.3メートル、基準排水量3654トン、水上速力23.6ノット、水中速力8ノット、安全潜航深度100メートル、航空機1機を搭載する新鋭潜水艦であった。

 しかし、同艦はその後二度の事故に見舞われ、修理を受けている。昭和19年5月、修理を終えた同艦は和田睦雄艦長他103人が乗り組み、伊予灘で訓練を始めた。6月13日、愛媛県郡中港沖合いを抜錨し訓練海域の伊予灘由利島、青島間に向かったのである。


 伊号33潜は両島の中間付近に達して潜航訓練を開始した。

 ところが艦が20から30メートル潜航したころ、機関室から「吸気筒より浸水!」の悲痛な声が伝わった。3,4人がかりで閉じたが浸水は止まなかった。

 このとき司令室では一時機関室隔壁を閉鎖して浸水を防ぎ浮上しようかという措置もとりかけたが機関室には乗組員の半数がいる。これを見殺しにすることができないとしたことが最悪の事態となったようである。浮上に必要な空気はなくなり、艦は艦首を上方にして45度の仰角で沈下し、深度計は60メートルを指して艦は着底した。

 和田艦長は指令搭員だけでも助けようとハッチを開けて脱出するという方法を選択、脱出装置から艦長を除く司令室の全員が次々に脱出した。浮き上がった者たちは泳ぎ始めたが、そのうち一人、二人と波間に消え、3,4時間後、由利島に向かって泳いでいた三人だけが付近を通りかかった漁船に救助された(うち一人は漁船内で死亡)。 


 本艦は大東亜戦争中には引き上げられず、除籍された。

 戦後の昭和28年6月21日、本艦は呉市北星船舶工業によって興居島御手洗海岸沖合いで浮上した。引き上げ作業開始以来75日目のことである。

 多くの遺骨と遺書が見つかったが、驚くべきことに浸水していなかった魚雷発射管室と 前部兵員室を開いたところ、昨日息をひきとったとみまがうような12の遺体が発見されたのである。酸素欠乏と61メートルの海底の冷気が遺体を損なわさせなかったのであろう。

 顔の色はそのまま、金歯がのぞく唇は淡紅色、皮膚を押すとわれわれのように適度に柔らかく適度に堅く、まるで生きているようで、「総員起こし」の号令でもかければ飛び起きそうな感じであると愛媛新聞は報じている。丸坊主のはずの頭部は髪が5センチほど伸び爪は1センチちかくの長さで突き出ていた。酸素が次第になくなる苦悶からであろう、全員裸体であった。

 61メートルの海底で9年間変らぬ姿でいた乗組員と無言の対面を果たせた遺家族の心情は如何ばかりであったろう。


 平成15年6月、伊号33潜事故60周忌にあたり護衛艦まつゆき他海上自衛隊艦船が参加して礼砲を発し、潜水艦乗組員の御霊に対して再度の鎮魂が挙行された。

 由利島、青島を望む興居島御手洗海岸には本艦の慰霊碑が建立されており、今も献花が絶えない。





■慰霊碑へのアクセス〜高浜港乗船→興居島・泊港下船。
南に徒歩約20分(港に案内板あり)海岸道路沿い。


参考: 「伊号第三十三潜水艦慰霊碑」(興居島) 伊予歴史文化探訪
     伊號第三十三潜水艦慰霊碑|京都大学戦争遺跡研究会(2017-)

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H29.12.15