■セウォル号と菅源三郎

      
 菅源三郎(かん げんざぶろう)は知る人ぞ知る郷土の偉人である。

 明治十六年、菊間町に生を受けた菅は長じて国際航路を行き来する商船の船長となった。彼の名を高からしめたのは日米開戦のまさにその日である。上海沖において米国の軍事輸送船プレジデント・ハリソン号(後の日本船籍・勝鬨号)の監視を海軍に命じられた菅は、長崎丸を駆って追跡監視しつつその動向を逐一打電し続けた。結果プ号は揚子江河口の浅瀬に座礁し、日本の駆逐艦に拿捕されることになる。

 世人の称賛を受けた菅に悲劇が襲う。翌年5月17日、長崎港入り口で浮遊機雷を発見した菅は他船の危険防止に傾注するあまり自船が誤って触雷、死者13名、行方不明26名という惨事を招いてしまうのである。最後まで艦橋にあって指揮をとっていた菅は船とともに海中に沈んだ。が、浮上したところを救助され、まさに九死に一生を拾う。

 海難審判の結果、軍による機雷情報の伝達ミスが原因として長崎丸側は責任なしとされた。だが事故の三日後、菅は勤務する東亜海運長崎支店ビル屋上で壮烈な割腹自決を遂げるのである。

 その遺書は語る。
 「(社長に)小職の軽挙により重大結果を惹起し御国に対し会社に対しまた痛ましくも惨禍に遭われし部下職員に対し御詫びの申し上げやう御座なく…」「(支店長に)船と運命を共にする能はず船体沈下と共に海中に入りながら浮かび上がるに任せ生き延びたるは不覚に候えども数日間の謡命を借りて事後の処理(注〜遭難者への慰問や善後処理に奔走したこと)に営るを得たるは必ずしも恥ずべきことにあらざるかと自ら慰め居り候」

 さらに自刃の前日夫人に宛てた手紙にはこうしたためられている。
「最早諸手続も済みたる故かねて覚悟のとほり潔く自決して御国と会社と殊に又遭難せし人々の英霊と御遺族の方々にお詫びをする。もとより船長として当然の処置なり。お前たちの為には生きて居てやりたいのは山々なれどそれでは我が日本帝国の海員道が相立たぬ」
 米船拿捕の表彰を目前に控えた自決は世に大きく伝えられ、秋には町葬が執り行われた。

 ひるがえって2014年の韓国・セウォル号事件である。死者三百名超、しかも修学旅行生が大半であったこと、また遺体の多くが指を骨折していたことから死の間際まで鉄扉を開けようと苦しみもがいたことが推察され、今も胸が痛む。
 この惨景を目前に、同号のイ・ジュンソク船長は乗客を置き去りにして最初に避難したばかりでなく、病院での(彼のケガは臀部のかすり傷)海洋警察の聞き取りに対し「自分は一般市民」と身分を詐称していた(同年4月19日付東亜日報)。また、船員法では船長には最後の乗客が下船するまで在船義務が課せられているが、イ船長は「私は救助隊員が早く乗れ、と言ったのでその指示に従っただけだ」と主張したという。

 非常事態下では人は否応なく(しかもおそらく瞬時に)救うべき命に順番をつけざるをえなくなる。生き延びたいという動物的本能を力づくで押し込めつつ、乗客を救おうとする気概や使命感はこの船長のものではなかった。
 一方で「責任なし」と判断されたにもかかわらず、自らを裁いた菅船長の生き方も厳然として存在している。自決がすべてだ、と決めつけるつもりはない。しかし、同じ「海員道」の範疇に属すはずの両者が後世に示したコントラストは実に鮮明である。

 人生には、あきれかえるほどの卑怯さと息を呑むほどの崇高さを同方向に見ることができる機会が、時として訪れるようである。

(H29・10・25)

菅船長の銅像

※菅船長の銅像は菊間町・かわら館(JR菊間駅南隣)から西へ
徒歩3分の小高い山頂に整備されています。


参考:「菅源三郎船長」 プリン(ラブラドール)と観光 (個人ブログ)
    船乗りの心、菊間にあり TOPICS 詳細|MYTOWN -まいたうん-
    道前の群像 菅 源三郎 道前会 愛媛県立西条高等学校卒業生の会
    キャンパス史跡巡り 東京海洋大学 海洋工学部

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H29.10.25