―「雑感」遺跡修復や学校建設を通じ
垣間見た日本人戦歿者慰霊碑の姿―

元全郵政四国地方本部執行委員長
丸 山 憲 治

 私(達)は元々ミャンマーに慰霊を目的として行った訳ではなく、無礼ですが、ついでに慰霊碑を訪ねた程度で、戦記についても数冊の本しか見たことがないというのが実情です。ただ、5人の仲間と歩いた観光旅行が、ふとしたことで未来へ繋げる足跡を残し、また、現在進行形のものもあり、そのことを述べつつ、慰霊の真似事をしていたのかと理解していただければ充分です。ミャンマーを訪問してきた仲間の皆は、それぞれにきちっとした考えをもって行動してこられましたので、彼らを巻き込んで味噌糞にならないようにしなければならないと思っています。

 平成9年(1997年)、全郵政の先輩と同輩5人の仲間で「世界遺産めぐり」の旅と称して、マンダレー管区にある11世紀を中心に栄えたバガン王朝遺跡を見学に行きました。軍事政権になって10年も経っていない頃、ビルマやラングーンの名称が変わった程度の知識で特別の関心を持っていた訳ではありません。
 当時はまだ関空から直行便があり、ミャンマーまでは今ほど時間がかからない旅でした。ヤンゴンへの到着は夜、仄かな街灯りが見えたかと思うと程なく機内の灯りが消え、真っ暗がりの滑走路に着陸、ムワッとするような外気を肌に感じ、感動を覚えつつタラップを下りると、日本製中古車バスの出迎え、薄明かりの到着フロアには木製の机数台にカーキ色軍服姿の入国審査官が座る簡素な風景がありました。
 当時、此処で300米ドルをミャンマーのチャット(兌換券)に替えるのが入国の条件で、このチャットを3〜4日の地方滞在で使い切ることは出来ません。そして、再びドルに交換することが出来ないこの国の仕組みはミャンマーの状況を垣間見る思いがしました。
ヤンゴン市内のレストランには金蝿が舞い、お土産にと思って買った魚醤の瓶は蓋がコーラの王冠であったりの現実がありました。
一昨年メイミョーという地方の市場に行ったとき出会った、子供を抱いた女性の物乞いに戸惑いましたが、最近気になる現象のひとつです。そういえば、ヤンゴンのアウンサン市場で托鉢姿の尼さん?に金品を催促される様な事が以前からあって、これには「托鉢と物乞」の区別がつかず、私の頭の中では不可解です。

 バガンで遺跡内部を見に行った時には子供達が懐中電灯片手に「頭に気をつけて」と可愛らしい日本語で、後ろ向きになって狭く暗い通路を案内したあと、わずか1ドルにも満たない数チャットのチップを手に「ありがと」と目を細めて笑った顔は爽やかでした。
 そんな時のこと、バガン遺跡の保存修復の話しが持ち上がり、数少ない壁画のある崩壊仏塔修復の手伝いをすることが決まりました。
 私たちは此処に来て立ち寄ったタビィニュ僧院境内に「弓」部隊慰霊碑を目の当たりにし、ただの旅行者から日本人に引き戻され、その後の旅の方向を変化させていくことになったのではないかと思います。
遺跡修復や学校建設に至る道筋では、「ビルマ人は親日的」あるいは「ビルマにのめり込んでる」などとせせら笑うように口上を述べる輩もいましたが、不和随行したり喧嘩にならず来れたことは、旅の其処此処で得た体験的自負心かと思います。

 平成14年(2000年)頃、バガン、イラワジ河畔の野外レストランで昼食をとっていた時に、近くに座っていたご老人(群馬県から来たと言っていた)から、「戦時中にこの近くで戦友2人が撃たれて死んだ。イラワジ河の河畔にあった洞窟に埋めていったんだけどその洞窟が分からない。」という話しを聞きました。その時、そこに私たちと一緒に居た通訳のテイン・サン氏が、「もしかしたら私の知っている洞窟かも知れない」と言う事で、それを老人の付き人に地図を書いて説明したのです。老人は居ても立っても居られないのか、食事もそこそこにその場を立ち去りました。この老人が洞窟を探し当て、そこに眠る戦友にめぐり逢えたのかどうか・・・、その後再会することもなく切なさだけが残りました。

 遺跡修復の話しにもどします。とにもかくにも理屈抜きの早い決断でした。修復費用は先輩がそれぞれの懐具合の良し悪しを見て割り振り、他のことは何も決めないまま、2,3年の内に4箇所もの仏塔を修復してしまいました。この先輩の戦略的段取りのおかげで、全修復過程において各々の問題も出ず、一回くらいの作業現場見学をした程度でした。一緒にやってきた仲間の内1人が7年前にこの世を去った時には、遺品のいくつかを思い出にタビィニュ僧院に預けることが出来、「死んだ時には何かをこの地に残して欲しい」との希望を叶えることも出来ました。なお、第三者からは遺跡には新たな手を加えるべきでないとする意見もありましたが、修復にあたった職人から現存する壁画や非崩壊部には手をつけない旨の説明があり、壁画や構造物がいま以上に崩壊しない手法で修復されました。
 相前後して、シャン州のペイン・ネービンという所にパ・ラオ族という少数民族を訪ねたことがります。ここの老婆が「子供の時、山の下を日本の兵隊が歩いていくのを見た。怖かった」と語ってくれました。日本兵のことを直に聞いたのはミャンマーを旅行してこの老婆が初めてでした。

 一日山の中を歩き廻りヘトヘトになっての帰途、イギリス植民地時代の遺構の横を通ったとき、インパール作戦の事をポーターに聞いてみましたが、知らず顔で話してくれません。この時以降、戦争のことは出来るだけこちらから話さないようになりました。また、チンドゥイン河に沿う白骨街道や、アラカン山脈を越えたシッタウエ(旧アキャブ)周辺地域などの数個所の旅行計画も立てましたが、交通事情や治安問題などで許可されず未だに実現していません。

 話しが横道に逸れましたので再び元の話しに戻します。遺跡修復から間も無く小学校建設の話が持ち上がりました。出所はバガンで遺跡修復でお世話になった元小学校長のチー・マオさんという方です。聞けばチーさんが以前教えていた学校で、バガンから相当距離があって汽車もバスもなく、自転車で何時間もかかって通ったアマカ・ピーイン・ダイン村という所だそうです。あれこれ説明を聞いただけで、この時には行く時間がなく次回来た時案内して欲しいことと、日本に帰ってからも皆で検討することを伝えて帰国しました。
 この計画は、とても5人では出来るものではありません。帰国後、執行委員会(全郵政四国地本)で現地の地勢や生活状態、また推定する建設費などを示し、意見交換から始め組合員を中心とした検討委員会も設けられ、議論が重ねられました。組合の全国組織は11の地方本部があって、アジア連帯基金を通じてカンボジアやラオスなどに学校を寄附したり難民支援の活動をしておりましたので、加えてミャンマーへ一地方本部の単独活動ということですから、何処かから難しい問題提起がされる可能性もなかった訳ではありませんでしたが、既に単独活動している他の地方本部もありましましたので、それに習って組織内カンパ金を募り学校建設をする事と継続的な学用品支援策などの方向性がすんなり決まりました。カンパ活動が開始される前、アマカ・ピーイン・ダイン村を現地調査した私たちは、予想以上の現状にびっくり、まず村に続く道路は途中から砂泥の道なき道、数メートル走ったかと思うとタイヤが砂にのめり込む、降りては車を押す作業を繰り返し、空回るタイヤの砂埃りと汗で上から下まで真っ白になって、やっと到着しました。

 椰子の葉葺きで高床式の民家と、それを囲む竹の塀の間の道を抜けたところに、この村の小学校はありました。ブリキの屋根と柱だけの30坪ほどの建物と、椰子の葉(織ってゴザ状にしたもの)で囲った20坪ほどの建物がこの村の小学校だと案内され、中を覗くと14,5人の子供達が地べたにビニールの肥料袋みたいなものを敷き、長椅子のような机で勉強している。
 壁は無く黒板(らしきもの)で仕切られた向こう側ではもう一組の幼年生たちがいて、全身砂に汚れた私たちおじさんおばさんを見て緊くなっているのです。通訳のテイン・サン氏が私達に言いました。「ここの子供達は外国人を見たことがないので、珍しいんです。」我々が来る事は知っていた様子でしたが、恐らくは初めての経験に緊張が解けない様子なので、私たちはわざとおどけて見せたりしたのでした。このとき以降はワイワイガヤガヤの普段の子供達になりました。

 「小学校建設は組合員のカンパで建てよう」との提案から2年余り、ようやく現存小学校の校舎に壁や窓を付け、床を敷き、机や椅子の手配を頼み要望の職員室が増設され、なんとなく学校らしい建物になりました。
 それから2年後、60坪ほどの新校舎が完成。白い便器のついたミャンマー式手桶水洗トイレも出来て、日本から来た「異文化女性」の皆さんも安心してこの村に来れるようになりました。
 新小学校落成式にはこの校舎が村人であふれかえり、喜びが伝わってきました。組合の事業としてミャンマーに小学校を建設し始めて数年、今年2月には待望の中学校校舎も出来上がりました。小学校から中学校までこの村で進級することが出来るようになったので、きっと中学就学率も伸びることでしょう。
 4月になって今度はアマカ・ビーイン・ダイン村の人たちがお金を出して小中学校全体の開校のお祝いをするので、日本の皆さんにも是非来てもらいたいとの知らせが届きました。村の子供たち皆が就学出来ることを願って学校づくりに参加した元全郵政の皆さん、沢山の学用品を醵出していただいたガールスカウト愛媛県支部の皆さんには、来年3月の(多分)村人総出のお祭りに参加していただきたいと思っています。

 終わりに、今年2月末から3月初旬にかけて、アマカ・ピーイン・ダイン村訪問の後、モン州モウラミャインを経て、かつて戦争捕虜や現地の人を使って完成したという泰緬鉄道の終点(ミャンマー側起点)タンピューザヤに行って来ました。日本軍が建てた「泰緬鉄道緬側建設殉難者之碑」と戦後建てられたと思われる慰霊の仏塔はタピューザヤの中心部のロータリーから少し南に行ったところにあり、私たち旅行者12人は日本から持参した線香を慰霊のパコダに手向け手を掌せました。その後当時の機関車が保存されているというので行ってみたところ、道路沿いの林の中で風雨にさらされて赤錆び、側面に“CO522”と白ペンキで書かれた機関車が、往時を偲ぶには寂しげに鎮座していました。
 この町でたまたま立ち寄った食堂で、おそらくはこの店の店主だと思う老人が私たちに話しかけてきました。この老人は、私たちが日本人だとわかると、日本軍が此処に居た時の体験を話しだしました。丘の上に日本人の将校(ジャパン・マスターと言っていた)が住んでいて、「コドモ、コドモ」と呼ばれ、大切にしてもらった。また、ある時は、日本兵の家に卵を持っていき、靴下と交換してもらったことなど。靴下は解いてロンジーやタメインの糸にしたのだそうだ。だから、覚えている日本語は、「コドモ」と「クツシタ、アリマスカ」この二つです。懐かしそうに日本の兵隊との思い出を語ってくれました。

 そして、戦争が終わった時、20人の日本の兵隊が腹を切ったとの話を聞きました。その場所は、今しがた私たちが線香を手向けたあの仏塔の前だったのです。何か、不思議なものを感じざるを得ない、この老人との出会いでありました。それは今年2月28日のことでした。
 また、この町には美しく芝生が敷かれ整然と整備された(管理人までいる)墓地がありました。聞けばイギリス兵の墓地だそうです。ハワイのパンチボウルや、規模は小さめですがワシントンD.C近郊のアーリントン墓地をも彷彿とさせるような墓地。通訳のテイン・サン氏のによると、何年か前に、日本人もイギリス人もこの墓地に集まり「皆が、涙を流し合った」事もあったそうです。

 それにしても、荒廃寸前の仏塔と整備されたイギリス兵の墓地。何か、やるせない思いでタンピューザヤの地を後にしたのです。
 「世界遺産をめぐる旅」で始まった私たちのミャンマーの旅ですが、その行く先々で否応なく大東亜戦争の足跡に出会ってきました。それは、取りも直さず、この赤い大地で数多くの日本人が現地の人々と触れ合い、生活し、また、祖国の繁栄やアジアの解放を思い散っていった。そんな事実を日本人である私たちに無言のうちに語りかけているような気がします。
 次回のアマカ・ピーイン・ダイン小学校訪問時には、アラカン山脈・白骨街道の地を是非訪れたみたいと思っています。

追伸
 泰緬鉄道建設で亡くなったイギリス人(外)の墓地が、綺麗に整備され公園化されて在るのを見たせいかもしれない。日本人慰霊碑は各地に点在し、戦友や遺族、または、個人の意志等々によって建立され、様々な形態を成していると考えられる。その事と併せて、この10年余りの間の、建立者、関係者の減少と高齢化が、それらの荒廃の速度を速めている現実を実感する。
 ミャンマーを訪れる日本人にとって、「行きたくない所」になってしまう可能性をゼロとしない荒廃の現実。私たちは黙って放置し、いずれ忘却の彼方に押しやられるを良しとすべきなのだろうか。



丸山憲治氏

 丸山憲治氏は元全日本郵政労働組合四国地方本部執行委員長。日本会議愛媛県本部と丸山氏との交流は、平成15年に結成された「北朝鮮による拉致問題を考える愛媛県民会議」(救う会愛媛)で、拉致救出運動を共に行なうようになってからである。丸山氏は当時委員長としてその陣頭に立ち、愛媛を中心に四国地本挙げて街頭活動や集会などの活動を推進された。当時から本文にも書かれているように、四国地本としてミャンマーでの学校建設などのため、何度もミャンマーを訪れ、その体験を活動の合間に伺い写真やビデオを拝見する機会を何度となく得た。そのなかで出逢ったミャンマーの日本人戦歿者の慰霊の現状の話しもあった。
 ミャンマーは大東亜戦争で大きな戦いが開戦当初から終戦まで行なわれた国で、愛媛県出身の戦歿者も5千5百余名にのぼる。丸山氏の話は、文献や資料でも殆ど触れられていないものが多く、その話しは新鮮でもありまた深い感動を覚えるものであった。全郵政を引退されてからもミャンマーへの旅は続けられている。また私共日本会議との交流も継続、というより慰霊や歴史観を通じてより深いものとなってきている。今回は是非ミャンマーでの日本人戦歿者慰霊碑の現状の一端を紹介したいとの愛媛県本部事務局から依頼で玉稿を寄せられたものである。

*全日本郵政労働組合 とは、昭和40年結成から平成19年まで存在した労働組合(郵政省・郵政公社)である。旧同盟加盟労組。政党的には旧民社党系労組。略称は全郵政。平成19年10月22日に、日本郵政公社労働組合(元全逓・JPU)と統合し、日本郵政グループ労働組合(JP労組)となっている



アマカ・ビーイン・ダイン村の中学校校舎前

「泰緬鉄道緬側建設殉難者之碑」の前に立つ筆者

20人の日本の兵隊が腹を切ったとの話をした老人(中央)

サガインの丘にある「ビルマ派遣日赤救護班看護婦戦歿者名
     (愛媛県出身者の名も刻まれている)

ミートキーナで散華した水上源蔵陸軍少将を讃える碑

水上 源蔵(みなかみ げんぞう、明治21年9月26日 -

昭和19年8月4日。最終階級は陸軍中将。山梨県出身。水上長光の三男として生れる。日川中学校を経て陸軍士官学校に進み、明治44年5月、同校(第23期)を卒業。大東亜戦争末期の昭和19年5月下旬、第33軍司令官本多政材中将から北ビルマの要衝ミートキーナに援軍として派遣を命じられる。30日、同地に到着。その後、第33軍作戦参謀辻政信大佐から水上個人宛に死守を命じられて2ヶ月以上に及ぶ米中連合軍との激戦を繰り広げるが、8月3日同地は陥落。水上は死守命令を伏せたまま部下に脱出を命じ、部下の渡河を見届けた後、一人でその責を負って自決した。死後、陸軍中将に進級し、個人感状を受けた。水上少将のミートキーナの戦いについては『菊と龍―祖国への栄光の戦い』相良俊輔著 光人社参照。


風雨にさらされて赤錆びている機関車CO522

サガインの丘に建つ日本人戦歿者バコダ

アマカ・ビーイン・ダイン村小学校

鯨・烈山砲戦友会による慰霊碑
    *香川・善通寺で編成された部隊

サガインの丘にある菊部隊・烈部隊慰霊碑
      *菊部隊は福岡。北九州で編成された部隊


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