愛媛の教育改革はここから始まった

〜昭和30年代初頭の勤務評定紛争を振り返って〜

愛媛県師友会ひの会
会長 近藤美佐子

 平成14年8月、愛媛県教育委員会は、翌15年春開校の県立中高一貫校における「新しい歴史教科書」の使用を決定、公立一般中学校としては、全国初の採択となった。
 愛媛県教育委員会の全国に先駆けた教育改革の取り組みには前史があった。昭和30年代初頭、勤務評定紛争で当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった日教組と全面対決し、これを撃退したのである。
 当時、教育委員長として日教組と闘い抜いた竹葉秀雄氏に師事し、県庁職員として勤務していた近藤美佐子先生に当時を振り返っていただいた。 
 なお、本稿は、平成14年11月に行われた講演(愛媛県教科書改善連絡協議会主催)をまとめていただいたものである。                  



 今年の夏は皆様方の大変なご活動によりまして、愛媛県教育委員会は全国に先駆けて扶桑社の歴史教科書を採択するという快挙を成し遂げました。誠にご同慶の至りでございます。

講演中の近藤美佐子氏  今から四十五年前、愛媛県教育委員会はこれまた全国に先駆けまして教育の正常化ヘの道を拓きました。当時猖獗を極めておりました日教組、その日教組の御三家のひとつと言われていた強力な愛媛県教員組合を、ほとんど壊滅せしめて教育正常化へと進んだのであります。
 今から半世紀近くも前のことでございますので、私も当時の新聞をひっくり返して見たり、また当時の県教育委員会や文部省などの文書、なかには極秘・マル秘の文書もいくつかございましたが、それらが大きなダンボール箱にほとんど一杯ありますのに目を通したり、また県の教育委員長であった竹葉秀雄先生の当時の日記や、県の教育次長の真鍋さんの書かれた「愛媛勤評紛争史」、「戦後十年の愛媛教育史」などにも一応目を通しました。こうして少し記憶を確かに致しまして、これからお話をするわけでありますが、はじめに日教組につきましてちょっと触れておきたいと思います。

  
占領下に生まれた鬼っ子 日教組

 昭和二十年八月、日本が戦争に負けまして、アメリカが日本を占領致しました。そのアメリカ占領軍が真っ先にやったことは、共産党の徳田球一などの政治犯三千人を刑務所から開放することでありました。そして占領軍は日本民主化の名のもとに、盛んに労働運動を奨励したのであります。
 全国で一番始めに学校の先生の組合を結成したのは京都府でした。それからはまさに燎原の火のように物凄いスピードで、全都道府県に教師のいわゆる労働組合が次々と結成されてゆきました。その組合の四分の一は社会党系、四分の三は共産党系でありました。愛媛県の教員組合は共産党系で、昭和二十一年七月に結成されております。
 アメリカは占領当初は、共産党の活動が盛んになることをむしろ歓迎したのであります。そして労働組合の活動を奨励しましたので、全国のいたるところで労働争議が頻発しました。その集大成といいますか、帰結が、ご記憶の方もおいでになるかと思いますが2・1ストであります。昭和二十二年二月一日を期して、吉田内閣打倒を目標に、国鉄労組、全逓信、日教組、この三つの組織が中心となって全官公労二百七十万人のゼネストを立ち上げていったわけです。これが実施されれば、まずお米をはじめあらゆる物資の流通が止まります。通信もストップしてすべての情報が遮断される。ちょっと考えただけでも、食うや食わずで敗戦のどん底に喘いでいた日本は大混乱になり、革命へと雪崩れ込むのは必至と思われました。こうなると占領軍もほうってはおけません。いよいよストに突入するという前日、即ち一月三十一日の午後五時に、まさに瀬戸際でマッカーサー総司令部は、ストップをかけてストをねじ伏せたのです。こうしてストが中止されましたので、その代償として、いたるところで労働協約が結ばれました。
 愛媛県では県と教員組合が労働協約を結んでおります。その一部を申し上げますと、まず、県が採用した教員、学校の先生ですね、これは一人残らず否応なしに組合員になると定められました。ですから組合はなんの苦労も無しに全県下の教師を組合員として掌握することができるようになった。それから、教員の給与や人事、これらすべてを県は組合の意向を聞いて決めなければならない等々、その他いろいろございますが、この労働協約によりまして、県組合が教育行政の中に深く入りこんできたわけであります。

  
教員の政治活動

 昭和二十三年に教育委員会が置かれました。これも進駐軍の命令であります。全国の都道府県・市町村に置かれましたが、これはアメリカ占領の置き土産ですね。日本人が産み出したものではなくて、つまり貰い物なので、いつまでたっても本物としての力が出ない。 去年の歴史教科書の採択でも教育委員がいかに弱いか、全国三千余の教育委員会で、どこかが扶桑社の教科書に手を挙げかけたのですが、少し脅かされると直ぐひっこめましたね。極めて弱い。まだまだ借り物であります。
 この教育委員会でありますが、当初は委員を選挙で選出することになっていました。すると教組は組合の役員を立候補させて、先生方が走り回って運動して高得点で当選させる。選挙のあとで教育委員会を開催してみると、委員会と組合の役員会が同じような顔ぶれだったなどという話もあります。これで教組は教育行政を牛耳り、選挙運動のノウハウを身につけたわけです。
 次に参議院議員の選挙がありました、全県一区。非常に強力な自民党の議員を抑えて社会党が当選しました。これも教員組合が走り回った。その二年後に知事選がありました。保守のレッキとした筋の通った政治家に対して社会党も候補を押し立てて、これも学校の先生が走り回って激戦の末、社会党の知事を実現させました。選挙の後で学校の先生七千人か八千人が一斉に一号給月給が上がったのであります。そういうことで、選挙の後は、先生の組合は飛ぶ鳥を落とす勢いだったと思います。組合の幹部なんかは県庁の中を肩風切って歩いているという感じでした。
 当時、私は児童福祉の仕事をしていました。五月五日の子どもの日には、県民会館に子供を集めて子供大会をするのですが、市内の各小学校長にいろいろお願いをしなければなりません。そういうときに教育委員会に行くと計画書を出せの、申請書を出せのと手間がかかる、その点、持田の教育会館に陣取っている県教組に行けば、話は速いのであります。持田にゆくと三好文化部長なんかがふんぞり返って座っておる。威張りたくて仕方が無い、といった風情です。そこで「三好先生、五月五日に子供を五千人県民館に集めたいのですが、あの日は休みだけど学校の先生に付いて来て貰いたいの。どうかしら」「OK」と言えば、もう書類もハンコもいらない。当日になると、五千人の子供がちゃんと先生に引率されて集まってくる。県教組の威力をつくづく感じさせられましたが、 というのは非常に強いという感じを持っておりました。

  
日教組の正体

 はじめは学校の先生たちも、それほど日教組を恐るべき危険な団体だとは思ってなかったようです。校長先生をはじめ全員が組合員ですし、県に採用されればそのまま自動的に組合員になるのですから。むしろ組合は日本民主化の旗印を掲げている進歩的な良い団体だと思いこんでいた先生が多かったのではないでしょうか。それに自分達の身分を保証してくれるのはどうやら組合に違いないと思い違いをしている先生も大分おいでになったようで、組合に逆らうことなど夢にも考えない、そういうひとが多かったと思います。
 ところが、その組合を包括する全国組織、日教組は「丹頂鶴」と言われました。組織のずーっと上層部は真っ赤なんであります。つまり共産党の闘争委員長の岩間正男なんかが日教組の上層組織にガッと食い込んでおる。共産党にしてみれば、学校の先生の組合くらい頼りになるものはない。というのは学校の先生は全国の津々浦々、山の中にも島の果てにも配置され組織化されておる。しかもそれぞれの地域の父兄と深い繋がりを持っておる。そして次の世代の青少年を育てる職業なんであります。この教員の組合、七十万人の日教組、これを赤く染めれば居ながらにして日本は革命できるのであります。
 また、その赤く染めるのを一所懸命に手伝ったのが大学の教授であり文化人でありました。左翼のね。なかでも特に熱心だった六十余名は日教組のお抱え講師団に雇われて小中学校の教員の思想教育に全国を飛び回りました。またそのなかの数人が一所懸命に考えて作ったのが、「教師の倫理綱領」であります。これは日教組の先生たちの「教典」と言われました。御承知の方もおいでになると思いますが、書いてあることは、まず、
 「教師は労働者である」。
 「団結こそ教師の最高の倫理であって、共産主義社会を実現することが教師に課せられた歴史的使命である」なんて書いてある。そして、
 「青少年はそういう社会を実現するための働き手として組織され、教育されねばならない」。つまり「学校教育は共産主義社会をつくるための戦闘員を養成すること」だというのであります。
 これを書いたのは、柳田謙十郎、宗像誠也、宮原誠一、周郷博、清水幾太郎等々とまあ錚々たる左翼の学者たちであります。
 当時の日教組のいろいろな資料を見ておりますとね、彼らがあこがれる理想の国は、ソ連、中国、北朝鮮であります。ソ連は分解して無くなってしまいましたが、よりによって、この三つの国こそわれわれの手本・理想郷だと書いてある。そして日本はぼろくそです。 国歌は歌うな、国旗は引き摺り下ろせ、あの「愛国心は戦争につながる」というアホな言葉は、その当時からの合言葉であります。
こういう学者にしろ、それに躍らされた多くの先生方にしろ、こういう人たちは要するに日本のことを本当に知らなかったのではないかと思います。明治の開国で、鎖国の扉を開けてみて西洋文明に魂消た日本人は、朝野を挙げて追いつけ追い越せに忙しくて、子供達に日本のことをじっくり教えなかった。この、日本の本質的なことをちゃんと教えないという傾向は、明治の学制を初めとして大正、昭和と一世紀にわたって続きました。(大東亜戦争に負けてからはとくに酷い) それで、日本をほんとうに知らない日本人が育ってしまった。高学歴の者ほど日本のことを知らない。そういう言わば自分を知らない日本人が、ギリシャ文明について語り、ローマ帝国の興亡を喋々し、カントがどうの、ヘーゲルがこうの、マルクスはあゝのと言って、それで学者として罷り通っておるのであります。

  
竹葉秀雄先生
 
 さて、文部省も日教組の左傾化に、これはと気がついて、昭和三十一年に、教育委員の公選制をやめて、任命制にしました。地方公共団体の長が議会の承認を得て教育委員を任命するのです。それで愛媛県でも五名のそれぞれ立派な方が県教育委員として任命されました。その一人が竹葉秀雄先生でありました。ここで竹葉先生のことについて少し触れておきたいと思います。
 竹葉先生は日教組と戦ってこれを敗退させましたが、その後で日教組は愚かにも、文部省と愛媛県をILO(国際労働機関) に訴えたのです。それで竹葉先生はジュネーブまで行かれたのですが、行かれてその顛末を「ジュネーブ行」という文章にお書きになりました。その一番初めにこう書いておられます。
 「日本は大東亜戦争に敗れた。そしてこの戦争は日本がしかけた侵略戦争だという烙印を押された。私はアジア民族解放のための戦いだと思って全力を尽くした」と。

 竹葉先生という方は非常に人徳のある方で、若い頃から、先生を慕って村の青年や子供達が先生の周りに集まってきました。先生はその子供達に本を読んで聞かせたり、教えたりしているうちに次第にそれが塾のようになりました。いまのいわゆる進学塾ではありません。先生は三間村の庄屋の一人息子でしたが、その家屋敷を開放しての塾でした。宇和島や八幡浜をはじめ南豫の各地からも先生を慕って青年たちが集まり、少年部、青年部と併せて八十余名が素読の声を響かせ、武道の練習に励むようになりました。これを、「三間村塾」と言います。そのうちに松山や越智郡、宇摩郡など県下の各地からの塾生や、さらに朝鮮半島、北支、満州、蒙古からも三間村塾を訪れて来るようになり、先生はそういう青年たちと寝食を共にして教育をされました。三間村塾で先生に教えを受けて巣立っていった青年の中にはインドや中東などの独立運動に出かけていった人達もおります。そういう状況を考えますと、アジア民族解放のための戦いであったというのは、先生の痛切な思いであったろうと思います。
 その当時、つまり今から七、八十年前のアジアを考えて頂きたい。インドがどうだったか、中国はどうだったか。仏領インドシナはどうか、フィリピンはどうか。アジアにはまともな独立国なんか一つもなかった。全部植民地であります。その屈辱と貧困の中で喘いでおったのがアジアです。日本だけが唯一の独立国でした。周りの国を見て、なんとか立ちあがってほしい、一緒に手を握って立ち上がろうというのが、あの戦争の底をずーっと流れておった思想であると思います。だから民族解放の戦いだった。
 ところが戦争が終わった後で、あの極東軍事裁判。まあ、なんと見事に日本人は洗脳されたことか。マインドコントロールされて完璧にやられてしまった。日本は悪いことをした、悪いことをしたと言い続け、教科書の中にもそれを書き、それを学校で教え込む。総理大臣までが侵略戦争であったといって憚らない。あの戦争で亡くなった二百四十万の将兵の方々に、申し訳ない。
 
 戦後の日本人は、いとも簡単に自己を失いました。と同時に国に対する誇りを失った。とくに青少年を教育する学校の先生が、驚くべきことに、知らん間に日教組の目指す社会主義革命の担い手となってずるずると引きずられて行ったのです。
 竹葉先生は戦後の、とくに教育界の状態を痛切に憂えておられました。
その時、即ち三十一年九月に教育委員になって頂きたいと知事からお話があったのです。
 先生は心に深く期するところがあったのでしょう。「私が教育委員になれば大変な混乱が起こりますが、かまわないでしょうか」知事が「結構です」と。それで先生は教育委員になることを承諾されました。三間町の家を出られる時ご家族に「私の命は無いものと思うように」と言われたとか。先生は死をする思いで松山に出られたのです。
 
  
第一次勤務評定紛争

 三十一年十月一日。新しい任命制の教育委員による第一回の委員会が開かれました。
そのときすでに勤務評定の準備は始まっていました。と言うのは、勤務評定は去年から法律で実施することが決まっていたのです。教育委員会の事務局では教師の勤務評定の内容についてどうすれば公正な評定が出来るか、検討の最中でした。
 勤務評定と言うのは、働いている者は当然受けなければなりません。県職員であった私達も当然のこととして評定を受けました。県警のお巡りさんも、県病院の医者もみんな受けます。学校の先生だけではないのです。職場での勤務ぶりを評定されることは当然で、しないほうがおかしい。それを小中学校の日教組だけがカーッと怒ったんです。高等学校は日教組に属していません。だから極めて冷静で、勤務評定も粛々と実施してべつになんの騒動もなしに済んでおる。
 ところが、日教組だけがひとりで大騒動して、全国七十万人の組合員の力で愛媛県教委を叩き潰してやるとかなんとか言うて「ナアニ、愛媛のようなちっぽけな県の教育委員会なんか鎧袖一触、一ひねりじゃ」とばかりに襲いかかってきたわけです。むこうから喧嘩をしかけにやってきたわけです。 

  
交渉という名の集団暴行

 そしていよいよ十月二十日から毎日々々二百人の校長や教員を動員して、県教委に押しかけてきて「勤務評定をやめろ」「団体交渉をせよ」と大声でわめきたてました。
 「勤務評定は法律で決められたことを実施するので、交渉事項ではない、しかし評定の内容について意見や要望があるなら聞きましょう」と初めは大会議室で話し合うようにしましたが、「人間が人間の評定をするのは不可能ではないか」とか、「校長がそんな勤務評定をやったら、組合員が校長に諂うようになる」とか「学校の中がお互いの疑心暗鬼で暗くなる」等々まことに低次元な話、そしてとどのつまりは「勤評で教師に差をつけるのは許せない」と、運動会で一着二着を決めるのは差別だ、許せない、という彼ら一流のおかしな理屈を振り回す。中には所謂団体交渉のプロが混じっておりましてね、そういうのが教育委員の話の言葉尻を捉えては攻め立てる。嘲笑し、揶揄する。やがて机を叩き、足を踏み鳴らし、怒号し、罵詈雑言、とても話し合いなどというものではありません。
 竹葉先生はこれが教師だろうか、と何度も目を疑ったといいます。教師であり公務員である彼らは闘争のために授業を休み、交代しては毎日教育委員会に推しかけて来て交渉を強要しました。
 二百人も三百人も来ては話し合いにならない、委員会室に入れる程度に人数を減らして貰いたいというと人員を制限するとは非民主的だと叫ぶ。そして委員会室にギュウギュウ詰めに押し入って、職員の制止も聞かばこそ、ドアを蹴破ってなだれ込む。入れない者は廊下に新聞紙を敷いて座り込む。新館四階の廊下はギッシリの座り込みで、人も通れない。夜になると冷えるので毛布や布団をもちこむ。もう狼藉散乱、目を蔽いたくなる有様です。
 委員会室の中では教育委員や教育長がカンズメになり(トイレにも何人かが監視についてくる)恐喝同様の質問や、取るに足らない理屈をつけた抗議を際限なく聞かされ「勤評やめろ」の繰り返し。大体こういう「話し合い」は、連日午後三時ごろから始まって、ナイターになり、翌朝の空が白み始めるまで続くのです。組合のほうは交替で出てくるのですが、委員のほうは、たまったものではありません。真鍋さんの「勤評紛争記」のなかに、竹葉委員長蒼白になり倒れる、という記録があります。
 不眠不休の連日連夜の包囲攻撃に委員は疲労困憊の極に達して、閉会にしようとすれば、彼らはこの時とばかりにさらに勢いづいて「逃げる気か、卑怯だぞ、誠意がない」と怒号し、退場しようとすれば、集団のなかに巻き込んで蹴り、殴り、洋服を引き裂く。それを誰がやったかわからないようにワッショイ、ワッショイとスクラムを組んでやるのです。ぎっしりの人ごみですから、部屋を出ることも物理的に不可能です。そして「いまに殺してやる、いやなら勤評を中止しろ」とか「こっちには総評もついているんだぞ、金もいくらでも在る。とても小さい委員会では勝てんから、今のうちにこの文書に印を押せ」などという者のなかには酒気を漂わせている者もいる。そして連日「昨日の回答はどうなった」「この件は、明日の四時にはっきり回答せよ」等、委員会の開催を強要するのです。
 当時、家の周りの塀や電信柱に大きな鳥の子紙一杯に「不倶戴天の仇竹葉秀雄を殺せ」などと書きなぐってベタベタ貼ってありました。電話戦術、電報戦術(三十分ごとに電報が届き家人が寝られないようにする)などの神経戦術、恐喝、尾行、デマ、とにかく集団暴行の限りをつくしたのです。
 また、県庁の正面広場から周辺を総評の赤旗で埋め尽くし異常な雰囲気で、そこを通って県庁に入るのが怖いようでした。
かれらの闘争の常套手段はこちら側の発言の中から彼らに都合のいい言葉だけを取り上げて、つまり作文をしてそれをマスコミに流す、誤報ですね。それが新聞記事になる。
 はじめ県教委は、教師である彼等の意見を聞こうと考えたようですが、彼らは勤評自体に反対で勤評粉砕を叫んでいる以上、もうこれ以上不毛の話し合いを続けることはない、却って誤報を新聞に流されたりして、県民を迷わせることになると、十月三十日に教組との話し合いを打ち切り、翌十一月一日に勤務評定実施に踏み切りました。
 
  
勤評断行

 十一月一日に自治会館(今の検察庁の所)に市町村教育長を集めて勤評実施の説明会を開きました。するとそれをやらせまいと組合員が駆けつけてきて会議室に押し入ろうとし、それを県職員が押し返す、その争いが私どもの勤務室まで山鳴りのように聞こえました。
 説明会が終わった夜の八時、今度は日教組の中執委や県教組の幹部が約百名、教育委員会室に押しかけてきて、なんで一方的に勤評実施に踏み切ったか、「まだ話し合いはすんでないゾ」と叫び始めました。そこで一応、教育委員会の考え方を彼らに伝えたあとは、竹葉先生は、もうこの人達とは話はできないと、一切口を開きませんでした。夜の八時から翌朝の四時まで八時間、無言の行です。県教組にしてみれば、昨日まで日教組の応援の下に教員を連日連夜大動員して闘争したのがフイになった、その腹立ちで、これこそ罵詈雑言、「おまえらを発狂させることも殺すこともできる」などと凄んでいたそうですが、お終いに「文部省やよその県の委員とも会ったが、こんなのは始めてだ、もうこんなの知らん」と言って労働歌を歌いながら引き揚げたそうです。

  
はじまりは四面楚歌

 こうしていよいよ勤評が実施されました。まず県は校長を集めて説明会を開きました。ところが一人も来ないのであります。当時校長は組合の役員なんかしていますから、誰も出て来ん。どこの会場もボイコットであります。松山だけが四十四名の校長が全員出てきたのはいいのですが、「私達は勤務評定はしません」と声明を出しただけでした。
 するとPTAも「勤評反対」という。校長と調子を合わせましてね。マスコミも皆反対の論調であります。労働組合は地評をはじめみんな反対、つられて、わけもわからんのに婦人会も反対、青年団も反対、愛大は大学人会議の先生百二十人が声明書を出しましてね、 「勤評は教育にマイナスになる」なんてバカなことを言って、新聞がまたそれを大きく載せたりして、もう四面楚歌であります。
 これは、新聞等のマスコミの力が大きかったと思います。当時の新聞を見ますと、県教委を叩く記事がメチャクチャ多い。当時の記者というのは何がなんでも権力のあるほうを叩いて正義面をするのが多かった。

  
松山市の校長の動き

 そのうち、松山市の数人の校長は「これはちょっとへんだぞ」と思い始めたのではないでしょうか。余りにも暴力的な組合のやり方に疑問を持ちはじめ「自分は一校を預かる校長としての責任がある」と思い「それが組合員と一緒になって騒いでいていいのか」と考え始めたのです。県下の小中学校校長八百人の大会で松山市の校長が組合とは別の校長会の結成を提案しました。これは否決されましたが、この提案は十二月になって松山市の校長二十名が組合に脱会届を出すことによって実施されました。これは勇気の要ることでした。いっぽう、組合にとっては背中に冷水を浴びせられたような気がしたことでしょう。
そのころ、社会党の国会議員はこの問題を国会闘争に持ち込み参議院文教委員会で審議することになりました。勿論、勤評阻止策です。しかしこれは見事に失敗しました。社会党の勤評反対の論拠はコテンパンにやられてしまいました。

  
勤評書提出のいろいろ

 県は年末から一月にかけて郡市毎に再び校長を集めて説明会を行い、評定書の提出期限を一月二十八日としました。今度は地教委と連携して開催したので校長は全員出席しましたが、この説明会から校長の苦悩が始まりました。各地で校長は度々集まっては、評定書を出すべきかどうか、地教委と組合の板ばさみの苦悩の日々が続きました。
 なかにはしっかりした考えを持った人望のある校長が中心となって話し合いを重ねるうちに、例えば今治市の校長会は全員組合を脱退しようということになり、温泉郡は期日までに評定書提出を申し合わせるなど提出に傾く都市が増えてきました。
尤も、温泉郡の場合、たまたま県教組の国村委員長がこっそりソ連に旅行したのがバレまして、彼は日教組の幹部に誘われてひそかに出かけたのですが、組合員(校長) が血のにじむ思いで闘っている最中に外遊とは何ごとゾ、それもソ連の次はフランスに廻るんじゃと、許せん!となって、その頃は殆どの校長は評定書を出すほうに傾いていたのですが、
迷っていた校長も外遊の一件でイッキにそんなら出せ、出せということになったそうです。
 今治では、ある校長先生、校長会に出かける時に部下の組合員たちに、「勤評は絶対出さんけん安心しとれ」と胸を張って出かけましたが、会の空気は次第に組合脱会に傾き、勿論評定書は提出と決まりました。そこで学校に帰ってみると、校長室に机も椅子も無い。はるかな運動場の真中に放り出してある。これが市教委の課長補佐に知れて電話で「やい、教頭はなにしよるんぞ」と怒鳴られて飛び上がった教頭が用務員と机等をかいて入れたので、やっと坐ることができたとか。こういう話はまあいいのですが、なかには部下の組合員に責められて惨憺たる思いをした先生もおいでになったようです。

  
「スターリン」に押さえ込まれた周桑郡

 いろいろありましたが、やはりそこは校長先生、少し遅れても二月四日には周桑郡以外の全郡市から勤務評定書は提出されました。結局出さなかったのは周桑郡だけでした。
 周桑郡の中学校長で「スターリン」の異名を持つ先生がおりました。初期の県教組委員長で、組合をバックににらみを利かし、先輩の校長はみな追い上げて勇退させて、若いのを組合推薦で校長にさせておる。それで校長会で「スターリン」がおらぶと誰もものをよう言わん、「スターリン」が「出すな コリャ」と言えば誰も評定書を出さないのであります。
 で、とうとう出なかった。そうすると、日教組の小林委員長がはるばる周桑郡までやって来て、「諸君、ようやった。いずれ法廷闘争になるかもしれんが、そのときは弁護士はこちらが全部揃えて準備する。君等の身柄は私が引き受けた」などと言うて「闘争資金だ」と一人々々に現ナマを渡す。日教組の委員長というと雲の上の人のように思っていますから、みな感激して奮い立ったとか申します。
 そこで、県教委はその三十四名の周桑郡の校長を懲戒処分にしなければなりません。さらに四百五十名の周桑郡の先生方、これは評定書が無いのですから給与の査定の方法が無い、それでこの四百五十名は昇給無し。しかし、これは二年後に救済措置をとりました。
 この周桑問題が国会で大問題になりまして、湯山さんあたりが走り回ったのでしょう、竹葉先生や大西教育長、それに文部省の初中教育局長が呼ばれて社会党の国会議員と喧喧諤諤の大論争をしたわけであります。

  
第二次勤務評定紛争

 引き続き昭和三十二年度の勤務評定、これに再び日教組が挑んできました。これを第二次紛争といいます。
 県教委は今度は早めに評定の内容等について地教委や校長のグループの意見を聞き充分打合せをして十月中旬に、これで行こうと決めたところへ、文部省が「来年から全国で勤務評定をやる」と発表したものですから、日教組は飛び上がりました。愛媛県だけでもこんなにあずったのに全国でやられてはおおごとだ、その前に愛媛を叩き潰せとに再び襲来したのです。
 組合側の作戦として、去年は校長を前面に立てて戦ったがあれは失敗した。組合脱退者が続出して結局周桑を除いて総崩れになった。その轍を踏まぬよう今回はいよいよ日教組みずからが前面に出て愛媛県と戦う、と宣言し、各県から選抜したオルグの精鋭百五十人を引き連れ、それに総評傘下組合の猛者百五十人が助っ人として加わり、併せて三百人の共闘本部を組織して十月二十一日にまさに台風のように嵐を捲いて乗り込んできました。
県教委は「今年の勤務評定は校長や地教委の意向も充分汲み入れて既に決定済みであり、もういまさらあなた方と話し合うことはない」と、合うことを拒否しました。
 すると新聞は、遠来の客に対し県教委は横暴じゃと書きたてる。
 そこで遠来の客達は、県庁の周りに赤旗を林立させ、共闘本部のテントを立てて座り込みをやり、街宣マイクでおらびたてて、まず県の用度課の職員と小競り合いの乱闘をやり、怪我人がでたとかで地評の三人が引っ張られていきました。すると記者がバッタのように飛び跳ねて取材をして、翌日の新聞に大袈裟な写真入りの記事を書く。新聞などは騒ぎは極力大きくなれかしと願っているみたいです。
十月二十七日。松山の木屋町の国鉄グラウンド、今はどうなっているか存じませんが、あそこで九千人の勤評反対総決起大会をやりました。愛媛の組合の先生たちはバス四十台を連ねて参加し、全国各県の日教組の組合員、それに総評が加わって九千人が大会を開き勤評反対の気勢を挙げて、市内に繰り出しました。県庁前や大街道でプラカードを担いで鉢巻しめて「わっしょい、わっしょい」というてジグザグ行進をする。それを見て松山市民は「あれが先生かや」とちょっとシラけたのであります。

  
戦闘開始「校長を監視せよ!」

 このとき既に勤務評定は実施の段階に入っており、書類も校長先生や関係機関に送付済みで、校長が評定書を地教委経由で県に提出する期限は十一月九日と決められていました。 
 闘争本部は「十一月四日から九日は天王山ぞ、組合員は全員学校に泊り込め!校長が評定書を出さないように厳重に監視せよ!校長の自宅にも見張りを立てよ!万一提出された場合は地教委を相手に奪還闘争をせよ!」と指令を出して、今度は、県外から来たオルグや総評の連中が先頭に立って容赦なしの激しさでどんどん闘争を進めて行きました。特に総評は、この際、先生たちの聖職者意識を剥ぎ取って労働者としての階級意識を持たせねばならんとハリキッて愛媛の先生たちを叱咤激励しました。

  
評定書封印事件(今治)

 例えば今治、ここは校長は全員組合を脱退しており、評定書も早めに市教委に提出済みでした。それを知った組合は市内外の数百名の教員を日吉中学校に集め、今治の二十三校の校長を引っ張ってきて講堂の壇上に並ばせて夜明けまでつるし上げをやりました。その余りの激しさ無慙さに女の先生達は泣き出したと言います。ついで評定書を取戻せと、市の教育委員を集めてムリヤリ委員会を開かせ(委員達は脅されて身の危険を感じたよし)評定書の奪還を迫りました。結局市教委は、県には提出しない、組合にも渡さん、市の金庫のなかに封印しておくということで、一応切り抜けました。その後、市はひそかに各校長にもう一通評定書を書いてもらってそれを県に提出したそうです。

  
宿屋は大騒動(小田町)

 また小田町、上浮穴郡の静かな山間の町です。ここの七人の校長が、郡の校長会で決めた以上、評定書は絶対提出するわけにいかんというのを、町の教育長が一人ずつ説得、これは時間がかかるので夕方から、ふじやという宿屋で行なわれました。教育長の熱心な説得にやがて一人また一人と陥落して、出しましょワイ、となると教育長は大喜びで「おおそうかや、そんなら必ず出すということのしるしに、ここに名前書いて判コ押してや」とやったのが松山の闘争本部の井上書記長の耳にはいった。「ナニ!誓約書かかした?」と、彼は直ちに十人ほど手下をつれて真夜中にタクシーでわ―っと小田町の宿屋に押しかけました。
 余談ですが、当時は、自家用車なんかありませんから、みんなタクシーです。タクシーなんかをふんだんに使った。例えば津島町の戸島に嘉島という小中学校があります。そこの校長が評定書を出したという情報が入ると五十人ほどの組合幹部がソレッと特船を仕立ててその学校へ行く。そして、「なんで出したんゾ」と夜の八時から夜明けまで校長室で責めたてた。この校長さんは偉い校長で「これはわしの信念じゃ」とつっぱね通したので、「これはもうどうにもならん」と言うて夜明けにまた船で帰ったそうです。というように特船であれタクシーであれ使い放題であったと言います。また道後の旅館は労組の幹部や各県のオルグで満杯、夜毎の宴会でこれは大いに儲かったという噂でありました。
 さて、上浮穴郡の組合のほうには「小田町が出すぞ、それを止めろ」と指令が飛んで、郡内の百五十人ほどがふじや旅館に押しかけ、井上書記長やオルグはガンガン抗議=吊るし上げをやり、組合員は宿屋の二階でどんどん暴れたので、天井が落ちると宿屋の主人は青くなりました。

  
住民意識の変化

 この騒動で注目すべきは一般住民の意識です。宿屋での騒動の後、小田町の校長先生たちは前言を翻して再び提出拒否の側に回ったので、町教委は再度校長との話し合いをもち、その席に各校のPTA会長にオブザーバーとして来て貰った。
 そのときのPTAの発言の一、二を挙げます。
 「勤評が悪法なら改正するよう努力するのが本筋です。しかし改正は合法的手段でやってほしい。私は今の勤評の法律は遵守すべきものと思っています」
 「勤評の内容が不備だから提出できんというが、日教組の団結が壊れるから提出できんというのが本音のように思われる」
 「先生方は、昇給した先生と昇給しなかった先生に対して子供の信頼感がどうのこうのと言うけれども、子供は毎日先生を評定しています。月給の多寡によっては子供の信頼はつなげません。もしも先生方が子供の目をそれほど甘く見くびっておいでなさるのなら問題は大きいと思います」
 かつてのPTAは学校の先生の指示どおりに動いていましたが、勤評騒動の有様をみているうちに山の住民もこれは…と思い始めたようであります。

  
権力のイヌ論争(三間町の紛争)

 三間町では四人の校長が相談して評定書を町教委に提出すると同時に組合に脱退届を出しました。その情報が折から宇和島の明倫小学校で勤評反対南予総決起大会をやっているところへ届いたものですから、ソレッ三間がやられた、とばかりに大会そのものがダ―ッと三間町に移動しました.大会参加者は貸切りバスやタクシーで次から次へと三間の鬼北中学校に乗りつけたのです。村の人はこんなにようけの自動車は見たことが無い。びっくり仰天して警戒のために消防が出たといいます。このときのことを、当時の鬼北中学校長の米田兼光先生はこう書いておられます。
 とにかく団体交渉、つるし上げが二た晩続きました。第一日の晩は徹夜でやって、夜が明けると組合員の先生たちは授業があるので、それぞれの学校に帰る。そして夕方の五時ごろからまた大勢集まってくる。それが町内だけじゃない、他の町村からも、郡外からも次々集まって来てまた徹夜のつるしあげに参加する。
 その吊るし上げの終わり方に、闘争委員が「お前ら四人はなぜ組合の指令に反して評定書を出したか、言うてみい」というので私はこう言いました。
「君たちは我々四人を権力の犬だと罵った。この言葉はそっくり諸君にお返しする。何となれば今や教育界における最大の権力者はまぎれも無く日教組である。この真夜中にこれほど大勢の、しかも町内だけではなしに町外からも郡外からも、日教組の指令一つで何百人もの教師が集まる。これは大変な力である。この日教組の力の前には、県教委のそれはものの数ではない。その証左に県教委の実施する勤評の紛争を叫ぶ日教組に対しては忠実にその指令一本でかくも多数の組合員諸子が夜中に参集しているではないか。県教委の指示は歯牙にもかけぬが、絶大な権力を持つ日教組の指令には唯々諾々として盲従しているのが諸子である。我々はその日教組と闘っているのだ。諸子等こそ権力に阿る犬と言わずして何と言おうか」
 挑戦ともいうべき私の言葉に、当然反論の叫びが挙がると予期していたが、以外にも、満堂シュンとしてしばし声が無かった、と。

  
猛烈な阻止活動のなかで

 その後、オルグの攻撃はさらにひどくなり、八幡浜市、東宇和郡、新居浜、川之江、三島、宇摩郡等では校長が集まって評定書提出の相談をしての帰途、組合員に襲われ、拉致されて警察に助けを求めると言う事件が、あっちでもこっちでも頻発しました。
 愛媛の先生(組合員)たちは、日教組や総評のオルグに命令されて激しく締め付けられながら、日頃よく知っている地教委の職員や校長を敵に回して戦わざるを得ない日々のなかで次第に、オルグたちいわば県外から来た赤の他人にムリヤリやらされているという気分になって行ったようです。また、こうしてオルグの連中に引っ掻き回されて、愛媛の教育が破壊されていいのか、と思い始めた者もいました。それで、教頭の中にも組合脱退の動きが出はじめました。
 評定書提出は、猛烈な阻止活動の嵐なかで、校長の迷いと決断の間を縫って少しずつ増えていきました。提出期限の十一月九日には三割が提出、県教委は再び提出期限を十二月十日に延期し、業務命令として提出を厳命しました。

  
勤評闘争大詰め

 新聞には連日、提出した学校名と数が、たとえば十一月何日、何時現在、提出校何校で何%、未提出校何%と報道されるのです。最終期限の十二月十日が近づくとラジオやテレビは刻々と選挙の開票速報よろしく報道するのですから、迷っている校長先生は針の筵に坐らされている思いがした事でしょう。
いよいよ最終締め切りの十二月十日午後四時、提出した学校数は四百六十三校(六〇・四%)。依然三百校は未提出、いやその大半はオルグ等に押さえ込まれていたのでしょう。
 やむなく県教委はこれらの校長の処分を検討し始めました。すると知事と自民党が「去年周桑の三十余人の処分で国会までが大騒ぎをした。三百人の処分は前代未聞」と仲裁に入り、結果「あと四日待とう、十二月十四日を最後の提出日とする」と決めたのです。
 この瞬間に未提出の校長たちはガタッときました。
 この二ヶ月間、オルグに激しく叱咤激励されながら持ちこたえてきたが、再三にわたる期限延長で、もはや精も根も尽き果てた校長たちは、あと四日、と聞いた瞬間にガタガタッと崩れました。もうこれ以上一日も一時間も一分も頑張れない、もう勘弁してくれ!
 校長達は組合の阻止を振り切るようにして更に百校近くが提出、そして組合脱退者がイッキに増えはじめました。

  
終 焉

 組織の危機、これ以上闘争を強行すれば県教組は崩壊するぞと緊急戦術会議が開かれました。日教組の委員長はじめ幹部は全員松山に詰めていましたし、社会党も浅沼稲次郎書記長ほか党幹部が大勢来て直ちに秘密会議、これ以上勤評闘争を続けるかどうかで、県教組はヤメたといい県外の連中は続けろで、怒号乱れ飛ぶ徹夜の議論でもまだ決まらず翌日もエンエン九時間の論争で全員朦朧となってようやく、いったん全校勤務評定書を提出して事態の収拾を計ろうということになりました。
 完全な敗北であります。
 十二月十四日似は県下の全小中学校七百六十七校の評定書がそろいました。
 その翌日の十二月十五日、日教組の小林委員長は、誰一人見送る者も無い国鉄松山駅から、たった一人で汽車に乗って帰るのを、読売の記者が見つけて「日教組の委員長、一人淋しく去る」と言う見出しの記事を書いておりました。

   
おわりに

 いったい日教組は愛媛県に何をしに来たのでしょうか。
 日教組六十余人の中央執行委員のうち四十七人を松山に派遣し、各府県からのオルグ述べ二千四百七十人を投入して連日連夜県下全域を走り回らせ、闘争資金として本部や総評傘下の労組からのお金を合わせて二億とも五億とも言われるお金を(当時ハガキは五円でした)消費しただけでなく、結果として、県教組から組合員の殆どが逃げ出し、愛媛の組合はボロボロに崩壊して見るかげもなくなりました。いったい日教組はなにをしにきたのでしょうか?
 竹葉先生の「ジュネーブ行」に次の一節があります。

 ―――天は私に幸をもたらしたと言うべきか。県教組・日教組の勤評反対闘争は激烈を極め、地評、総評まで加わり、県会・国会の政治闘争にまで発展し、まさに天下を二分する戦いとなった。が、これによって父兄や一般の人達は、日教組が如何なるものか、その本性を始めて知って愕然とし、また各地に義挙の旗が立って、この戦いは全国的となった。
 日本教育の正常化は未だ出来上がらず、その前途は未だ遠いけれども、その曙光が見え始めたのは、この勤務評定によってであり、もしこれ無かりせば、日本教育の正常化は更に困難であり日時を要したことと思う。その意味で確かに神助であった。
―――と。

 竹葉先生は勤評のことは「あれは済んだことだ」と余り話したがらなかったのですが、たまに、こんなふうに言われました。

 「あれは、鋤で土をひっくり返したようなもので、本当の教育はこれから始まる.土をこなして、種をまいて、水や肥料をやり、そして大輪の花を咲かせねばならない。そのなかで一番大切なことは、この日本がどんなに美しい国か、それを教えることだ。そして一人一人がどんなにすばらしい輝きを持っておるか、それを更に輝かせるような教育をしなければならない。そのような愛媛のすばらしい教育がいずれ花開く時が来る」と。
                            
これで終わりにします。


h14.11.24 「愛媛を愛する会フォーラム」においての講演より

h18.8.11